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「まるで芸術品」「ゾクッとしました」20歳の武豊が初めてダービーを意識した“消えた天才”…脚にボルトを入れた“不屈の名馬”が復活するまで 

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島田明宏

島田明宏Akihiro Shimada

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photograph byYuji Takahashi

posted2024/05/23 11:40

「まるで芸術品」「ゾクッとしました」20歳の武豊が初めてダービーを意識した“消えた天才”…脚にボルトを入れた“不屈の名馬”が復活するまで<Number Web> photograph by Yuji Takahashi

1989年11月、20歳の武豊を背にデビュー3連勝を決めたヤマニングローバル。しかしこの直後、右前第一種子骨の複雑骨折という悲劇に見舞われた

 トウショウボーイ、ミスターシービー、ヤマニングローバルとつづく父系が、武にとっていかに特別だったかがわかる。

新たな勝負服「エアロフォーム」日本初の実戦投入

 ヤマニングローバルに関してもうひとつ、武にとって大きかったのは、管理調教師が浅見国一だったことだ。浅見は、競走馬の当日輸送や、ゴム腹帯の導入などを日本で初めて実施した伯楽として知られている。

 武は、武田作十郎厩舎の所属騎手としてデビューしたのだが、よく「ぼくには師匠が2人いた」と話していた。ひとりは武田で、もうひとりが浅見だった。

「武田先生は、『誰からも好かれる騎手になりなさい』ということ以外は、何も言わない人だった。浅見先生は、はっきりと厳しいことも言う怖い先生でした」

 武田は1992年2月限り、浅見は1997年2月限りで定年を迎える。調教師として晩年を迎えようとしていた2人に、武は可愛がられ、育てられたのだ。

 ヤマニングローバルは、1989年9月17日、阪神芝1400mで行われた旧3歳新馬戦でデビューし、3馬身差で勝利をおさめる。

 実は、この日は、武と浅見にとって、いや、日本の競馬界全体にとって、特別な日となるのだった。武は、その少し前、8月の終わりから9月の初めにかけて、初の海外遠征に出ていた。アメリカのアーリントン国際競馬場(当時の名称)である。そこで彼は、以前からアメリカの競馬雑誌を見て気になっていた、騎手の体のラインがはっきり出る勝負服を試着させてもらった。利点を訊くと、伸縮性のある生地を用いて肌に密着させるのは空気抵抗を軽減するためで、「エアロフォーム」と呼ばれていることを知った。

 帰国後、それを勝負服の業者に話しても動いてくれなかったが、浅見に言うと、すぐアシックスに話を通し、製作に取りかかってくれた。そうして完成した日本初のエアロフォームは、「ヤマニン」の冠がつく馬の水色の勝負服だった。

 武が実戦で初めてエアロフォームを着たのは、ヤマニングローバルがデビューした日の第1レースだった。

「ヤマニンノッカーという馬に乗って、ダート1800mの未勝利戦に出ました。それほど人気してなかったのに(3番人気)、ポンと勝っちゃった。同じ勝負服で臨んだ第4レースのヤマニングローバルも馬なりで楽勝だったんです」

【次ページ】 「ダービーに手が届く感じがして、ゾクッとしました」

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