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「長谷部さん、大変だろうなぁ」内田篤人23歳がポツリ…『心を整える。』長谷部誠27歳が怒った日と葛藤「あんな形で壊してほしくないわ!」
text by
ミムラユウスケYusuke Mimura
photograph byAFLO
posted2024/05/21 17:01
2011年、シャルケ内田篤人とボルフスブルク長谷部誠。彼ら日本代表選手は社会現象の真っ只中にいた
ボルフスブルクでは公式戦159試合に出場した。もっとも多かったのは、マガトの変則システムの右ボランチを含めた、右サイドMFが55試合で、約34.6%だった。その他にも左サイドで起用されたり、インサイドハーフやトップ下を任されることもあった。サイドバックとしてプレーしたのは33試合(約21%)。それほど多くはないと思われるかもしれない。
一方でボランチとしてプレーしたのは42試合で、約26%。全試合の4分の1程度しかなかった。彼がドイツに渡って以来、本職としてきたポジションであることを踏まえれば、あまりに少ない。
どのポジションでも監督の意図を汲んでプレーを続けた結果、監督にとっては「便利で使い勝手の良い選手」というレッテルを張られてしまったと言えるのかもしれない。勝利のために力を尽くす成果がそこに行きついてしまうのは、人生の悲哀を感じさせるものだった。
長谷部が珍しく怒っていた日とは
そういえば、ボルフスブルク時代の長谷部が珍しく怒っていたことがある。
中東でのW杯アジア予選の試合を終えた翌日。ドイツへ戻る前に、空港で待ち構えていた記者に突然、「日本のクラブへの復帰も考えますか?」と聞かれたときのこと。長谷部が急な問いかけに対して答えをはぐらかしたところ、そのやり取りを〈浦和レッズ復帰もありえる〉というテイストで大きな記事にされてしまった。
「あんな形で、俺がボルフスブルクで築き上げてきたものを壊してほしくないわ!」
どんな状況に置かれようと、自分の信念に沿って、クラブのために全力を尽くしてきた。だから、長谷部はクラブに関わる人たちから評価されてきた。
筆者の経験を持ち出して恐縮だが、海外で日本人選手のいるクラブで取材をしていると、異邦人ゆえに嫌な思いをすることは多い。
だが、ボルフスブルクではそんなことは一切なかった。それどころか、日頃やり取りをするクラブの広報担当者から強面の警備員まで、親切に接してくれた。それは長谷部があのクラブで築き上げてきた日本人の良いイメージがあったからこそだろうと考える。
長谷部は勇気をもって、ニュルンベルク移籍を決めた
それほどまでの足跡を残したボルフスブルクを、長谷部はその後のキャリアについて深く考えた上で、去ることに決めた。
もちろん、ヘッキンク監督や名GMとして知られるアロフスなど、多くの人たちから慰留されながら。
このエピソードは、私たちにも大きな学びと共感を与えてくれる。
会社でも学校でも、自分が望むポジションとは異なるところを任される人は少なくないだろう。優秀な人は得てして、置かれた場所でもめげずに努力したり、組織のために欠かせない役割を果たすケースが多い。すると、それを見た上司などの第三者は「そのポジションこそが最適だ」と捉えてしまうことがある。
自分が望むポジションや得意だと感じる役割が、現状とリンクしないのであれば……リスクを冒してでも、環境を変えてみるのも一つの解決策かもしれない。当時の長谷部のように。
果たして、長谷部が勇気をもって踏み出した新たな一歩――ニュルンベルクでの挑戦は何をもたらしたのか。それは続編以降に譲ることにしよう。
<つづく>