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「長谷部さん、大変だろうなぁ」内田篤人23歳がポツリ…『心を整える。』長谷部誠27歳が怒った日と葛藤「あんな形で壊してほしくないわ!」
text by
ミムラユウスケYusuke Mimura
photograph byAFLO
posted2024/05/21 17:01
2011年、シャルケ内田篤人とボルフスブルク長谷部誠。彼ら日本代表選手は社会現象の真っ只中にいた
「もちろん、チームのために全力を尽くしますけど、僕の本来のポジションは6番(*日本でいうボランチ)です」
監督からはこんな風に返ってきた。
「もちろん、わかっている。キミが日本代表ではいつもそのポジションでプレーしていることも知っている。ただ、キミは右サイドバックだけではなく、その1つ前のポジションでも、あるいはやろうと思えば左サイドでもプレーできる選手だということもわかっている」
ヘッキング監督のもとで後半戦がスタートしたわけだが――前述の通り、託されたポジションは右サイドバックだった。
「自分の中でも色々な葛藤はあるよ。ただ、中盤の選手がサイドをやることは結構あると思うけど、逆に、右サイドバックの選手が中盤をやることはほとんどないわけで……。今は与えられたところでやるしかないかなと」
シーズン最終盤で起きた痛恨のアクシデント
シーズンが進むなかで、監督と何度も話をした。
「監督にやりたいポジションを伝えているのに、サイドバックで出されるというのは、チームの状況はあるにしても、中盤の選手としてのアピールがまだまだ足りないというところでもあるだろうから、それはちょっと悔しい」
当時の右サイドバックが攻撃的なタイプ(その後、ブラジル代表にも名を連ねるファグナー)だったこともあり、このポジションにはしっかりと守備のできる選手を監督は求めていた。バイエルン戦では、相手の左MFだったリベリをマンマーク気味でつかまえるような役割を与えられたりもした。
そして、痛恨のアクシデントが起こる。
このシーズンの最終戦で退場してしまったのだ。
シーズン最終戦の退場で課される出場停止処分は、次のシーズンに持ち越されてしまう。だから、翌13-14シーズン開幕前に置かれた立場は厳しいものだった。開幕戦で出場できないからプレシーズン中の練習では、常にサブ組に組み込まれた。それは仕方がないとしても、サブ組でもサイドバックを任される有様だった。
「監督のなかで(自分を起用する構想として)ボランチではないので。右サイドバックか、オプションが右のサイドハーフなのかな。監督には言い続けているんですけど……難しいですよね」
ボランチでプレーしたのは約26%という悲哀
サブ組のサイドバックで起用される意味は小さくない。
サブ組のサイドバック→サブ組のボランチ→主力組のサイドバック→主力組のボランチと、あまりに多くのハードルを乗り越えないといけなくなった。
長谷部が望むのは、ボランチで出場して、チームの勝利に貢献すること。ただ、別のポジションで起用されても、チームの勝利に貢献するという意志は変わらない。サイドバックで起用され、監督の期待に応え続けたことが仇になった感じすらあった。
最終的に、そのシーズンの開幕後、長谷部はニュルンベルクへの移籍を決めた。