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「長谷部さん、大変だろうなぁ」内田篤人23歳がポツリ…『心を整える。』長谷部誠27歳が怒った日と葛藤「あんな形で壊してほしくないわ!」
text by
ミムラユウスケYusuke Mimura
photograph byAFLO
posted2024/05/21 17:01
2011年、シャルケ内田篤人とボルフスブルク長谷部誠。彼ら日本代表選手は社会現象の真っ只中にいた
〈僕だって、休みの前の日には飲みに行きたい(笑)。結婚していないし。キャプテンは結婚していなきゃいけないとか、家庭持ってなきゃいけないとか、そういうのは嫌〉(出典:別冊宝島「W杯で勝つザッケローニの戦略」/原文ママ)。
長谷部の生き方は、多くの人に指針を与えた。ただ、書籍という形で100万人を優に超える人たちに自身の在り方を発信した人間にしかわからない葛藤は確かにあった。世に送り出せたことを素直に感謝できるまでには、時間が必要だった。
ピッチ上でも、イメージとのズレに苦しんだ
本業であるサッカーのピッチ上での戦いでも、周囲が期待するイメージと、自分が目指しているものとのズレに苦しむことが多々あった。
そのズレの象徴は、起用されるポジションだった。
2008年1月にボルフスブルクに加入して、第1次マガト政権で優勝する2009年5月までの1シーズン半は、変則的な「4-3-1-2」の右ボランチ(右MF)での出場がメイン。時おり右サイドバックで起用される程度だった。
それ以降、毎シーズンのように監督が代わっていくなかで、本職以外のポジションもよく任された。ボルフスブルク時代の長谷部を不動のボランチとして起用したのは、2010-11シーズン途中で暫定的に指揮をとった、リトバルスキーくらいかもしれない。日本代表では一貫して中盤の底を任されていたのとは対照的で、チームで良いパフォーマンスを見せているときも、こう語ることもあった。
「今はボルフスブルクで良いパフォーマンスを見せられているけど、本職のボランチでプレーできているわけではないから」
ターニングポイントが訪れたのは2012-13シーズンだった。
マガトが10月に解任されるまで、ベンチメンバーにすら入れなかったことは第1回で書いた通りだが、問題はその後だった。実は当初の暫定監督のもとでは守備のバランスを立て直すため、主に右サイドのMFとして起用されていた。
その後ウインターブレイク中、正式な監督となったヘッキング体制での公式戦19試合のうち、長谷部は16試合に出場している。しかし、そのうちの13試合は右サイドバックでの起用だった。
本職のボランチでの起用はわずかに1試合。しかも、後半22分からの途中出場という限られた時間だった。
自分の中でもいろいろな葛藤はあるよ。ただ…
長谷部はその状況に甘んじていたわけではない。むしろ、アクションは早かった。ヘッキング監督就任後すぐに監督の元を訪れている。
「最初の2~3日の練習で、右のサイドハーフやサイドバックとして見られている感じがして、ボランチの選手として見てもらえる感じはしなくて。やはり、最初が肝心だから……」
その場で長谷部は監督にこう伝えた。