核心にシュートを!BACK NUMBER
「軽く話せる時間ではないんだ、あの3カ月は」長谷部誠28歳“戦力外事件”記者が見た真相…ボルフスブルクの仲間が監督に「マコトを使うべきだ!」
posted2024/05/21 17:00
text by
ミムラユウスケYusuke Mimura
photograph by
Boris Streubel/Getty Images
「俺はわざわざドイツ語で話したのに、英語を話しているかのような字幕がつけられてしまって。アレはひどいよ(笑)」
長谷部誠がヤンチャな一面をのぞかせながら後に振り返ったのが、2008年1月のボルフスブルクでの入団会見での一コマだ。そこでは長谷部は基本的に日本語で話し、それを同席した通訳にドイツ語へと訳してもらった。ただ、自己紹介くらいはドイツ語でと考え、こう切り出したのだ。
「Mein Name ist Makoto Hasebe」
これをカタカナ表記にすると「マイン・ナーメ・イスト……」となり、発音も英語の「My name is……」に似ている。映像を紹介したTV局は、英語での自己紹介と聞き間違えてしまったようだ。
ネット環境が半年間ない中で過ごした23歳時
23歳時の“ほのぼのエピソード”とともに始まるボルフスブルク時代はしかし、戦いの連続だった。
このときボルフスブルクを率いていたのは、「鬼軍曹」の異名で知られるマガト監督だった。
選手たちを徹底的に追い込む指導スタイルは有名で、シーズン中でも1日に2回の練習を組むのは当たり前。選手たちが遊ばないように、練習のスケジュールを前日に知らせる。選手たちは気を休められず、学生時代以上のハードな練習を強いられた。長谷部は半年だけの在籍だった大久保嘉人と、過酷な日々を乗り越えるために励ましあうこともあった。
なお、2009年夏に大久保が日本へ戻ると、彼が残してくれた新品同様の家具が揃う街中への家に引っ越している。それまでの長谷部の自宅は、人口12万人しかいないボルフスブルクの郊外にある、「田舎」という表現がピッタリのエリアにあった。“約束を守らない“ことで知られるドイツの悪名高い大手通信会社が、いくら待てどもインターネットの回線工事に来てくれなくて、渡独から最初の半年間はネット環境なしで過ごした。
どうしてもネット環境が必要になると、大家に借りに行っていたという。スマホも普及していない時代のことである。料理レシピを簡単に検索できない時代だったからこそ、お湯をわかそうとして、鍋やヤカンではなく、フライパンに水をためて火にかけたという逸話も残している。
あの戦力外は「軽く話せるような時間では…」
そんなボルフスブルク時代の長谷部について多くの人の記憶に残っているのは、彼のキャリアには似つかわしくない、「戦力外事件」だろう。