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《衝撃動画》前田日明ブチギレ“伝説の控え室ボコボコ事件”…“被害者”坂田亘の対戦相手は何者だった? 本人が証言「前田さんにホメられた話」
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byTokyo Sports
posted2024/04/21 11:02
前田日明“伝説の控え室ボコボコ事件”の1995年5月20日。坂田亘(上)と対戦する鶴巻伸洋。この試合後に事件が起きた
「何だか話が違うなあって思っていたんだけど、プロレスはプロレスで奥が深いです。生半可な気持ちでは絶対やれません。そのことを理解しかかった頃の、その年の年末にW☆INGが分裂してしまうんです。旗揚げからたったの4カ月ですよ(苦笑)。大迫さんがトップのWMAという団体と、茨城さんがトップのW☆INGプロモーション。僕は大迫さんに呼ばれて『こっちで一緒にやろう。今度こそ格闘技系の団体にするから』って誘われたんで、その言葉を信じて同意したんです」
しかし、この大迫和義のWMAは旗揚げ前に消滅、「旗揚げの準備金が集まらなかった」というのが理由である。これによって、鶴巻の立場は宙ぶらりんになってしまう。しばらく無為な生活を送っていた鶴巻の脳裏に浮かんだのが、W☆INGの新入団後にスパーリングをした木村浩一郎の強さだった。「木村さんのように強くなりたい」と鶴巻は木村浩一郎の所属するサブミッション・アーツ・レスリング(SAW)への入門を決めた。1992年の夏のことである。
SAWは、柔道五段にして、サンボ世界選手権入賞者の麻生秀孝が、柔道、レスリング、サンボのルールを組み合わせて1987年に発足させた、投げ、絞め、極めの組み技主体の格闘技である。前田日明の主宰するリングスとも提携関係にあり、1991年12月の有明コロシアム大会から、木村浩一郎が本格参戦をはたしていた。
「麻生先生からは『お前、プロレスやっていたんだってな。だったらガンガンやっても平気だよな』なんて言われて、本当にガンガンやりました。よく壊れなかったってくらい。それに、練習時間は本当にピリピリしているんですよ。スパーリングは全員参加。体調の良し悪しは関係なし。今の時代なら考えられません。その上、2リットルの水を持参して練習に参加していたら『水を飲むんじゃねえ』って木村さんに怒られたりもして(苦笑)。それも今なら考えられないんだけど、それでも、強くなっている実感は確かにありました」
「連敗か…もうチャンスなしか」
デビューの機会はすぐに訪れた。同じ1992年の12月、足立区の東京武道館で開催された「格闘技シンポジウム」において、ロシア武道アカデミー教官のコージン・ワシ―リとの総合格闘技戦(3分5R)である。試合は判定負け。しかし、鶴巻は満足していた。予想以上に健闘したこともそうだが、少年時代に新日本プロレスに憧れ、UWFへの入団を夢見た青年が、デスマッチ団体をへて、ようやくリアルファイトのリングに立ったからである。