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“無口な”落合博満が酒を飲むと…「僕はピッチャーを絶対信用しない」ロッテ時代のコーチが証言する「落合がバーで語ったバッティングの秘密」
posted2024/02/22 17:03
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph by
KYODO
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「私は落合の“鏡”のようなものでした」
1984年から1986年までロッテオリオンズの一軍バッティングコーチを務めた広野功は、当時の主砲だった落合博満との関係をこう表現する。
日本プロ野球史上唯一、3度の三冠王に輝き、引退後は中日ドラゴンズをリーグ優勝4回、日本一1回に導いた落合。日本球界に名を刻む名選手・名監督である彼の「鏡のような存在」とはどういう意味なのだろうか。広野が落合と過ごした「濃密な3年間」を追っていきたい。
嫌な予感「お前、分かってるだろうな?」
コーチという立場でロッテ時代の落合を指導した広野は、1943年徳島に生まれた。徳島商業で甲子園に出場し、慶應義塾大学野球部時代には当時の長嶋茂雄が持っていたリーグ通算8本塁打のタイ記録を樹立。中日にドラフト3位で入団し、西鉄、巨人、中日で活躍した。球界史上初の逆転サヨナラ満塁ホームラン2本を放つなど、勝負強いバッティングはファンの間では語り草である。現役引退後は、中日スポーツの記者を経て、中日の二軍打撃コーチを務め、1983年にはベストコーチ賞を受賞する。
名実ともにコーチとして評価されていたなかで、広野は落合がいるロッテに移った。その背景には、広野と同時にロッテの監督に就任した稲尾和久(元西鉄)の存在があったいう。稲尾なしでは、広野と落合が交差することはなかったのだ。事の発端は、広野がまだ中日スポーツの記者だった1977年までさかのぼる。
「1977年オフに、中日は中利夫監督体制になると決まりました。当時、チームの組閣には担当記者も関わっていて、私は西鉄時代から縁があった稲尾さんに対し、投手コーチになってもらおうと極秘で動いていました。無事、稲尾さんが投手コーチに就任しましたが、その後、1983年オフに稲尾さんがロッテの監督に就任するという報道を聞いて、嫌な予感がしたんです。『まさか、俺呼ばれないよな』と……」