プロ野球PRESSBACK NUMBER

“無口な”落合博満が酒を飲むと…「僕はピッチャーを絶対信用しない」ロッテ時代のコーチが証言する「落合がバーで語ったバッティングの秘密」

posted2024/02/22 17:03

 
“無口な”落合博満が酒を飲むと…「僕はピッチャーを絶対信用しない」ロッテ時代のコーチが証言する「落合がバーで語ったバッティングの秘密」<Number Web> photograph by KYODO

1978年ドラフト3位指名、25歳でロッテに入団した落合博満。1982年、85年、86年と三度の三冠王を獲得している

text by

沼澤典史

沼澤典史Norifumi Numazawa

PROFILE

photograph by

KYODO

3度の三冠王に輝いた落合博満。孤高の選手というイメージが強いが、ロッテ時代の落合のそばには、バッティングコーチ・広野功の存在があった。運命のいたずらのように落合と出会った広野は、教えることなど何もない三冠王に対し、逆に、打撃について教えを乞う姿勢に徹したという。その広野がNumberWebのインタビューに応じた。【全3回の前編/中編後編も公開中】

◆◆◆

「私は落合の“鏡”のようなものでした」

 1984年から1986年までロッテオリオンズの一軍バッティングコーチを務めた広野功は、当時の主砲だった落合博満との関係をこう表現する。

 日本プロ野球史上唯一、3度の三冠王に輝き、引退後は中日ドラゴンズをリーグ優勝4回、日本一1回に導いた落合。日本球界に名を刻む名選手・名監督である彼の「鏡のような存在」とはどういう意味なのだろうか。広野が落合と過ごした「濃密な3年間」を追っていきたい。

嫌な予感「お前、分かってるだろうな?」

 コーチという立場でロッテ時代の落合を指導した広野は、1943年徳島に生まれた。徳島商業で甲子園に出場し、慶應義塾大学野球部時代には当時の長嶋茂雄が持っていたリーグ通算8本塁打のタイ記録を樹立。中日にドラフト3位で入団し、西鉄、巨人、中日で活躍した。球界史上初の逆転サヨナラ満塁ホームラン2本を放つなど、勝負強いバッティングはファンの間では語り草である。現役引退後は、中日スポーツの記者を経て、中日の二軍打撃コーチを務め、1983年にはベストコーチ賞を受賞する。

 名実ともにコーチとして評価されていたなかで、広野は落合がいるロッテに移った。その背景には、広野と同時にロッテの監督に就任した稲尾和久(元西鉄)の存在があったいう。稲尾なしでは、広野と落合が交差することはなかったのだ。事の発端は、広野がまだ中日スポーツの記者だった1977年までさかのぼる。

「1977年オフに、中日は中利夫監督体制になると決まりました。当時、チームの組閣には担当記者も関わっていて、私は西鉄時代から縁があった稲尾さんに対し、投手コーチになってもらおうと極秘で動いていました。無事、稲尾さんが投手コーチに就任しましたが、その後、1983年オフに稲尾さんがロッテの監督に就任するという報道を聞いて、嫌な予感がしたんです。『まさか、俺呼ばれないよな』と……」

【次ページ】 嫌な予感「お前、分かってるだろうな?」

1 2 3 NEXT
#落合博満
#ロッテオリオンズ
#中日ドラゴンズ
#読売ジャイアンツ
#広野功
#稲尾和久
#ランディ・バース
#ブーマー・ウェルズ
#星野仙一
#和田一浩
#立浪和義
#森繁和

プロ野球の前後の記事

ページトップ