「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER

広岡達朗への不満で“日本一のヤクルト”は崩壊…それでも水谷新太郎が“広岡さんの正しさ”を信じる理由「僕みたいな選手が19年も現役を…」

posted2024/02/21 17:04

 
広岡達朗への不満で“日本一のヤクルト”は崩壊…それでも水谷新太郎が“広岡さんの正しさ”を信じる理由「僕みたいな選手が19年も現役を…」<Number Web> photograph by Tadashi Hosoda

広岡達朗の“愛弟子”としてヤクルトの初優勝に貢献した水谷新太郎。70歳になった現在も師・広岡の教えは胸に刻まれている

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長谷川晶一

長谷川晶一Shoichi Hasegawa

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Tadashi Hosoda

球団初の日本一に輝いた1978年から一転、翌79年のヤクルトスワローズは開幕から不調にあえぎ、指揮官・広岡達朗もその座を辞した。監督への不満が噴出し、崩壊していくチームにあって、“愛弟子”の水谷新太郎が抱えていた葛藤とは。「僕は今でもずっと広岡さんの教えは正しいと思っています」――誰よりも広岡達朗を信じた男が、出会いから約半世紀が経過した今も続く師弟の絆について語った。(連載第24回・水谷新太郎編の#4/#1#2#3へ)※文中敬称略、名称や肩書きなどは当時

悪夢のような開幕8連敗、空中分解するチーム

 広岡達朗の下、ヤクルトスワローズはついに日本一を達成した。当時24歳だった水谷新太郎にとっても、それはようやくプロとしての手応えを覚える至福の瞬間でもあった。しかし、その喜びは長くは続かなかった。翌1979年、スワローズは失速し、広岡もまたシーズン途中で監督を辞してしまう。一体、チームに何が起こったのか?

「やっぱり、勝っているときはいいけど、負けがこみ始めるようになるとムードは悪くなるし、せっかく前年に優勝、日本一になってもいろいろ不満も出てきますよね。広岡監督としては、“連覇に向けて、さらに厳しく”という思いだったのに、それをよく思わない人も出てくるでしょうし……」

 日本一が決まった直後、休む間もなく秋季キャンプが始まったこと。サイン会やテレビ出演など、選手たちが楽しみにしていたオフシーズンのイベントがほぼ行われなかったこと。「連覇」を目指した翌79年のユマキャンプは、さらに過酷なものとなったこと……。選手たちの胸の内では、さまざまな不満が熱せられたマグマのように噴火寸前のところまできていた。

「もちろん、そうした不満が溜まっていた選手もいたとは思います。でも、僕としてはさらに階段を上るためには、厳しい練習も当然のことだと思っていました。全員が全員、そう思っていたわけじゃないのも理解していますけど……」

 言葉の端々から、広岡に対する信頼感が伝わってくる。ドラフト9位でプロ入りし、なかなか芽が出なかった自分を見出してくれた恩義があるからだ。そして同時に、チーム内に蔓延しつつあった「広岡への不満」に対するとまどい、それに対して無力な自分へのいら立ちもよく理解できた。水谷は力なくつぶやく。

「チーム状況がよくないこと、選手間で不満が溜まっていることはもちろん理解していたけど、当時25歳になったばかりの僕は、自分の思っていることを口にすることはできませんでした……」

【次ページ】 広岡もまた、水谷の成長から多くのことを学んだ

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