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暗黒期阪神、伝説の「F1セブン」とは何だったのか? 選ばれた3人が振り返る「矢野さんの方が速かった」「赤星だけは別格」…証言で読み解く“ノムラの遺産”
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byJIJI PRESS
posted2024/02/11 06:01
1999年から2001年まで指揮を執った野村克也。2年連続最下位で迎えた2001年、野村が高々と宣言したのが「F1セブン」の結成だった
「一応、1号車から7号車までいますけど、僕自身、自分が何号車なのかはよくわかっていませんでした。ただ、赤星が1号車だということだけは知っていました。あのメンバーの中では赤星だけが頭抜けていて、後はみんな似たり寄ったりでした。僕だけは一番遅かったけど(笑)」(沖原)
「赤星さんだけが一人だけぶっちぎりに速かったです。僕は同じ愛知県出身なので、高校時代から赤星さんのことは知っていましたけど、大府高校時代からめちゃくちゃ速かったです」(上坂)
高波もまた同意見だった。
「赤星だけは別格でした。彼が入団するまでは足の速い選手はそんなにいなくて、僕が一番速かったんじゃないかな?」
全員こういう気持ちを持っていたら…
2001年シーズン―。「1号車」の赤星と「2号車」の藤本敦士はシーズン序盤から活躍。赤星は新人王を獲得する。そして、藤本がシーズン途中でケガをし、代わりにブレークしたのが上坂だった。
「スタメンで使ってもらっていたのですが、8月の試合中にケガをしてしまって、監督へ報告にいくと登録抹消を告げられました。でも僕は“一軍にいさせてください”とお願いをしたんです。そうしたら、“全員こういう気持ちを持っていたらチームは強いんだけどなぁ”と褒めてくださって。でも実際は一軍登録日数を満たすと球団からボーナスが貰えるという下心があった(笑)。結局二軍に落とされるのですが、なんだか褒められて嬉しいような、内心恥ずかしいような、そんな気持ちでした」
F1セブンは野村阪神の「決意表明」だった
結局、赤星、上坂以外のメンバーはケガなどもあり、目立った活躍は残せず、同年オフの野村の退任とともに「F1セブン」は消滅することになる。それでも、20年というときが経過してもなお、当事者たちの胸の内には多くの思い出が息づいている。