「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER

「左足が…もうダメだ」“靭帯断裂”がヤクルト初優勝の伏線に? あの名捕手から開幕スタメンを奪った八重樫幸雄の告白「僕が出てたら優勝してない」

posted2024/01/19 11:01

 
「左足が…もうダメだ」“靭帯断裂”がヤクルト初優勝の伏線に? あの名捕手から開幕スタメンを奪った八重樫幸雄の告白「僕が出てたら優勝してない」<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

「打てる捕手」として長くヤクルトを支えた八重樫幸雄。1978年には開幕スタメンに抜擢されたが、シーズン序盤に靭帯断裂で戦線を離脱した

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長谷川晶一

長谷川晶一Shoichi Hasegawa

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Hideki Sugiyama

ヤクルトスワローズを球団初の日本一に導いた指揮官・広岡達朗は、優勝未経験のチームをどのように変革し、選手たちの心に何を残したのか。連載5人目の証言者は、広岡と“名参謀”に高く評価され、1978年に大矢明彦から開幕スタメンを奪取した八重樫幸雄。「自分が試合に出続けていたらヤクルトは優勝しなかった」――シーズン序盤に靭帯断裂で戦線離脱した八重樫が、自身とチームの運命が大きく変わった“あの日”を振り返る。(連載第17回・八重樫幸雄編の#1/#2#3#4へ)※文中敬称略、名称や肩書きなどは当時

プロ9年目で、初の開幕スタメンマスク

「開幕戦当日、試合前の練習が終わった後にいきなり、“おいハチ、今日はスタメンだぞ”って言われたんです。突然のことに本当にビックリしました……」

 球団創設29年目、ヤクルトスワローズが初めて日本一に輝いた1978年。記念すべき開幕戦のスタメンマスクを被ったのは、前年にダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデン・グラブ賞)を獲得した大矢明彦ではなく、プロ9年目を迎えていた八重樫幸雄だった。あの春の日から46年が経過してもなお、「僕はね、あれは一生忘れないですよ……」と大矢が振り返っていたことは、この連載(#13)でもすでに述べた。八重樫が言う。

「オープン戦終盤になると、その年のレギュラー選手が固定されてきます。それまでは、試合で使ってもらうこともあったけど、残り10試合くらいになって、ずっと大矢さんの起用が続きました。だから、“あぁ、今年も控えか……”と思っていたんです。でも、オープン戦最終戦に代打で出てサヨナラホームランを打ちました。そうしたら……」

 開幕当日の練習終了後、この年からバッテリー・作戦コーチに就任したばかりの森昌彦(現・祇晶)に呼び止められ、開幕スタメンを告げられた。76年シーズン途中に監督に就任した広岡達朗は、大事な一戦を実績のある大矢ではなく八重樫に託したのだ。

「今から思えば、僕にとっては初めての開幕スタメンだから、事前に伝えて緊張させないように気を遣ってくれたのかもしれませんね」

 先発は、右のエース・松岡弘と並ぶ、左のエース・安田猛だ。71年から77年まで、7年連続で松岡が開幕マウンドを託されていた。安田にとって初めてとなる開幕戦は、同じく開幕初スタメンの八重樫とのバッテリーとなった。

【次ページ】 「左のエース」安田猛の取扱説明書

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