荒川が八重樫に「きちんとあいさつに行け」と命じたのはそんな背景があったからだろう。はたしてそれは、当時、守備走塁コーチだった広岡の進言によるものなのか、それとも荒川もまた、ともにジャイアンツのユニフォームを着ていた、森の「頭脳」を評価していたのだろうか？　いずれにしても、78年シーズンから満を持して森がコーチとなった。当時、ヤクルトのレギュラー捕手だった大矢は、かつて本連載（#13）においてこんな言葉を残している。

「前年の77年にはダイヤモンドグラブ賞（現ゴールデン・グラブ賞）を受賞しました。でも、その翌年の開幕戦には出してもらえませんでした。理由？　正直、それは僕の方が聞きたいです。“まぁ、若い人を使いたいんだろうな”って思っていましたけど……」

　大矢の言う、「若い人」こそ、八重樫だった。どうして、森は八重樫を高く評価していたのだろうか？　本人には、思い当たるフシがあった。

西武監督時代の森祇晶。ヤクルトでは「森昌彦」として広岡達朗の参謀役を務めた　©BUNGEISHUNJU

入院先の病院に森からの電話が…

　広岡が正式に監督に就任して初めて迎えた、1977年の湯之元キャンプでのことだった。当時、評論家だった森は、広岡への表敬訪問を兼ねてヤクルトキャンプ視察に訪れた。

「その日の練習のラストがグラウンド20周だったんです。その様子を森さんはずっと見ていたそうです……」

　ヘトヘトになって走り終えた後、森が八重樫の下に近づいてきたという。

「……森さんが寄ってきて、“お前だけだな、最後まで手を抜かなかったのは”と言われました。他の人たちは途中、休んだり、手を抜いたりしていたそうですけど、僕は最後まできちんと走り切った。その姿を見ていてくれたんです」

　真摯に練習に取り組む選手を、広岡はことのほか重用していたが、森もまた同様の考えを持っていた。事前に自宅にまで出向いてくれたこと。練習で手を抜かなかったこと。そして何よりも、非凡な打撃センスを持っていたこと。「ポスト大矢」として、広岡、そして森にとって、八重樫の育成は急務だったのだ。

「当時、大矢さんと僕が一軍のキャッチャーだったんだけど、“何で、オレのところばっかり来るのかな？”って思うぐらい、森さんにはいつも熱心に指導してもらいましたね。当時はコーチが選手たちのもとに下りてきて話をするということは珍しかったから、嬉しい半面、常に気を張ってないといけなかったかな（笑）」

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