箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
「一畳の寝室スペースで、夜な夜な予備校の配信を…」《全国高校駅伝3連覇→3度の箱根駅伝出場》の弁護士が語る“勉強と駅伝”の二刀流生活
text by
栗原正夫Masao Kurihara
photograph by本人提供
posted2023/12/24 17:02
中大進学後の箱根駅伝は1年時の1区でデビューし、2年生で5区、3年生で4区と往路の3つの区間を走った梁瀬峰史さん(写真は2年時)
1区、5区、4区と、それぞれに思い出がある。たとえば、梁瀬さんが1区を走った07年は、その後オリンピックや世界陸上の日本代表になる東海大2年の佐藤悠基(現SGホールディングス)が2位に4分1秒の差をつける箱根史上に残る独走劇を披露した大会として覚えている方も多いかもしれない。
「佐藤悠基さんが飛び出すことは当然、想定されていたので、東洋大の大西(智也、現東洋大コーチ)さんを除いて『絶対についていかない』というのが、ほかの選手の間での暗黙の総意でした。もし無理にハイペースでついていってしまえば、中盤以降は地獄を見るだけなので。
走っている途中で、他校の選手と視線だけで『行く? 行かないよね?』みたいなやり取りがありましたが、結局は集団走、しかもかなりのスローペースになり、私自身はラストスパートも効かなくて、順位も伸びませんでした」
3年時は4区も直前の体調不良で区間最下位に…
2年時も当初はほかの区間を走る予定で、すでに下見を終えていた。ただ、レース1週間前に当初予定されていた5区の選手が体調不良になったことで、急遽、梁瀬さんにその役目が回ってきた。
「箱根への思いが足りなかったとは言いつつ、高校時代に“元祖・山の神”だった今井正人さん(順大→トヨタ自動車九州)が合宿に来てくださったことがあって、5区には憧れを抱いていました。ただ、1年の合宿あたりで、自分が山にそれほど適正はないと自覚していました。
2年生でいざ走ることになったときは、あきらめたはずの5区を走ることができる嬉しさがあった一方、『完走できるだろうか』というプレッシャーもありました。実際に山を上っているときは、どれだけ走っても終わる気がしなかったり、途中棄権が頭をよぎったりした記憶が断片的にありますが、途中で頭が真っ白になり、とくに後半の記憶はあまり残っていないです。
3年生のときは比較的、負担の少ない4区(※当時は最短距離の18.5km)で最下位。これは直前に風邪を引きながらも回復したつもりで『大丈夫』と言って走ってしまい、周囲を裏切ってしまった思いでした」
3年連続で箱根路を走った一方、最後の4年時はケガや体調不良による練習不足などもあって箱根を含む学生三大駅伝を走ることができなかった。