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全国高校駅伝《26年連続出場》の“超名門”長野・佐久長聖高「たった一度」の失敗の裏側「『それでも佐藤悠基なら…』とみんなが思っていた」
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph byAFLO
posted2023/12/24 06:07
2004年の高校3年時、佐藤悠基は夏のIHで後のマラソン五輪金メダルのサムエル・ワンジルに先着するなど異次元の力を見せていた
「2年生の夏前からは自分の中でどうすれば強くなっていけるかを考えて工夫したり、陰で努力をし始めた時期だったと思います。ポイント練習につけないなら、その分補強をたくさんやる。ジョグもただやるんじゃなくてその中にレースペースの部分を入れてみたり。上の5人くらいの駅伝メンバーはだいたい決まっていたんですが、どうにか自分もそこに食い込めるんじゃないか……というのが現実的になっていました」
秋口には5000mの記録もようやくメンバー入りの最低基準である14分台まで突入することができていた。そうして最終の現地合宿の練習で結果を出し、都甲は実際にメンバーに選ばれた。
本番で「2区3kmを走る」ということを両角監督から言いわたされたのは、都大路の1週間ほど前のことだったという。
「選ばれた時は連続入賞のプレッシャーとかよりも、メンバー入りできた嬉しさでいっぱいでした。普通に走れば入賞はできるだろうという印象でしたし、なにより……直前にとんでもない高校記録を出した佐藤悠基という大先輩がいましたから。この時は全然、不安を感じることもありませんでした」
実はこの都甲の余裕には前段があった。
前年、佐久長聖高は当時の過去最高順位である準優勝に輝いていた。
一方で、そのメンバーには5000mで15分台の記録しか持っていないランナーが半数を占めるという珍しい現象が起こっていた。その年のエースだった上野と2年生だった佐藤が、1区と4区で区間新記録(※1区は日本人最高、当時)の激走を見せ、3区を区間2位で走った森田稔(城西大→日立電線)も含めた「3本柱」が、他の力が劣るランナーのマイナスを一気に帳消しにする爆発力を見せていた。
そのレースを目撃していたこともあり、都甲としてはより力をつけた“大エース”擁する今年のチームも、普通に走れば十分、全国でも戦えるという見通しを持っていた。
「前年の1区を走った上野先輩も1万mで高校記録を出してから駅伝に挑んでいました。佐藤先輩がそのトラックの記録を大幅に超えて、同じ流れで都大路に向かっていた。だからこそ、その時は当然、先頭付近で佐藤先輩が襷を持ってきてくれるはず――ということしか考えていませんでした」
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ルーキーが感じていた大黒柱との「距離」
「やっぱ恐れ多い感じはありましたね。全然、雲の上の人でしたから。それだけに『佐藤先輩は失敗なんてするわけない。自分たちはその流れに乗って走れば最低限、入賞はできるだろう』というのが正直な胸の内だった気がします」
当時1年生だった高野寛基は、大エースを擁したチームの雰囲気をそんな風に記憶している。
高野は後に2011年の箱根駅伝で優勝する早稲田大学のメンバーとなる。6区山下りで転倒しながらも逆転で首位に立った走りを覚えているファンも多いだろう。