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全国高校駅伝《26年連続出場》の“超名門”長野・佐久長聖高「たった一度」の失敗の裏側「『それでも佐藤悠基なら…』とみんなが思っていた」
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph byAFLO
posted2023/12/24 06:07
2004年の高校3年時、佐藤悠基は夏のIHで後のマラソン五輪金メダルのサムエル・ワンジルに先着するなど異次元の力を見せていた
実はこの年の佐久長聖には、高橋尚子らの恩師として名高い故・小出義雄監督が市立船橋校を率いていた時代に達成した「全国大会初出場からの連続入賞記録」の更新がかかっていた。普段はそれほど結果を意識しない両角にとっても、頭の片隅にはそんな想いもちらついていた。
「ただ、調子がそれほど上がっていないのは分かってはいましたが、それでも佐藤悠基という選手が並のエースではないことは当時から感じていました。それは肉体的な素質ももちろんですが、向上心とか、目標に向けて自分を仕上げていく計画力ですよね。そういう部分に関しては、これまで見てきた選手の中でも突出していました」
エースの不調には気づいていた。
それでもなお、佐藤ならなんとか纏めてくれるのではないか……という思いも同じくらいに感じていた。
たとえ調子が悪くとも、前年のチームのエースだった上野裕一郎(前立教大監督)がマークした28分54秒という1区の日本人高校記録(当時)前後では襷を持ってきてくれるはず。そうして先頭付近でレースが進められれば、後続の下級生たちも流れに乗っていける――それが両角監督の描いた戦前の偽らざる想いでもあった。
◆◆◆
メンバーに滑り込んだ「進学クラス」所属のランナー
「これ、本番走れるかもしれないな」
最終合宿中の最後のポイント練習を終え、2年生だった都甲渓はそんなことを思ったという。都甲は両角監督が最後まで悩んでいた「6番手、7番手」争いに勝ち、滑り込むことができた選手ということになる。
都甲は当時、スポーツクラスではなく進学クラスに所属していた。
陸上推薦で入学し、寮生がほとんどの佐久長聖では珍しく、実家からの通学組でもあった。将来は医師になりたいという夢も当時から持っていた。そのため、本格的な陸上競技は高校3年間までと決め、競技と勉学を両立できる環境を求めて入学していた。結果的に、日々のポイント練習も他のメンバーと異なる時間にひとりで行うようなケースも多かったという。
中学時代からある程度の実績はあったとはいえ、全国レベルの選手ではなかった都甲にとって強豪校のトレーニングは厳しいものだった。都甲が振り返る。
「最初は全然、練習についていけるレベルじゃなくて。実家通いという状況もあって、両角先生からも『朝練習はやらなくていい』と言われていました。故障を防ぐ意味もあったんだとは思いますが……単純に全然、力がなかったですね」
それでも1年間、トレーニングを積んだことで、どうにかこうにか練習についていけるようにはなった。2年目からは、少しずつ自分の成長も感じられるようになっていた。