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JリーグPRESSBACK NUMBER
「サッカーって面白いの?」「日本でプロなんて」の声も…“三菱時代”から浦和レッズを支える女性職員に聞いた“Jリーグ誕生前夜”の物語
text by
寺野典子Noriko Terano
photograph byMiki Fukano
posted2023/10/10 18:00
前身の“三菱時代”からクラブを支える浦和レッズの職員・村瀬佳代さんに、Jリーグ誕生前夜のドラマを聞いた
多くの選手は「日本でプロなんてできないと…」
――ホームタウンが決まった後もスタジアムの改修など、プロクラブを立ち上げるにあたってやるべきことは数多くあるわけですよね。
「三菱自工本社との折衝など、森さんが奔走されていた記憶があります。同時に、佐藤仁司さんがものすごいアイデアマンで、次々といろんな企画を実行するんです。オフィシャルサポーターズクラブを作ったのは浦和レッズが最初でしたが、これも仁司さんのアイデアです」
――佐藤さんは欧州サッカーに詳しくて、初代運営責任者として浦和のサポーター文化を作った方としても有名です。“ミスター”と呼ばれていましたよね。
「仕事が山のようにあって、1週間も10日間も帰宅できなくても、佐藤さんは本当に楽しそうでしたよ。彼の『楽しくてたまらない!』というエネルギーが、準備室の空気を高揚させていたと思います」
――とはいえ、相当大変だったのではと推察します。
「そうですね(笑)。練習やリーグ戦の遠征準備など、通常の仕事以外にもやることが本当にたくさんあったので。それでも、マスコットの名前を募集して、千葉県我孫子市の小学生の男の子が名付けてくれた“レディア”という名前に決まったり、浦和レッズの新しいエンブレムができたりと、『いよいよ始まるんだな』という実感がありましたね」
――プロ化という意味で、チームの雰囲気も高揚感に包まれていたのではないですか?
「年齢が上の選手たちの多くは、『自分たちがサッカーをやっている間に日本でプロなんてできないと思っていたから、ギリギリでも間に合ってよかった』と言っていましたね。同時に、プロ契約を結ばない選手も一定数いました」
――大きな企業の社員から“個人事業主”になるわけですから、大きな決断が必要なのは当然だと思います。
「レッズに限らずですが、年齢やケガの経験などを踏まえて、JSLが終わった時点で引退する選手はいます。その決断を私も理解できましたし、尊重したいと思いました」
◆◆◆
JSLは1992年春に終わりを告げ、同年秋からはJリーグの前哨戦となるナビスコカップが始まった。日本サッカー界はプロ化という悲願を達成したが、その「オリジナル10」として浦和レッズが歩んだのは、決して平坦ではない“いばらの道”だった。
<後編へ続く>