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JリーグPRESSBACK NUMBER
「あんなに弱かったのに…」浦和レッズは最下位続きでもなぜ愛されたのか? 黎明期を知る女性職員・村瀬佳代さんが見つめた“Jリーグ30年史”
posted2023/10/10 18:01
text by
寺野典子Noriko Terano
photograph by
Miki Fukano
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試合を重ねるごとに増した「勝てないことの恐さ」
――1992年にJリーグとしてのナビスコカップが始まります。チーム内での変化は感じましたか?
「日産から移籍加入された柱谷幸一さんに『三菱って案外おとなしいんだな。こんなんじゃ勝てないぞ』と言われたところからのスタートでしたね」
――日産自動車サッカー部には元ブラジル代表のオスカー(のちに監督)のほか、木村和司さんなど、いわゆるノン・アマチュアのプロ選手もいて、日本サッカーリーグ(JSL)の強豪クラブでした。
「三菱自動車サッカー部は、オスバルド・エスクデロ(エスクデロ競飛王の伯父)、パトリシオ・マクアリスター(リバプールに所属するアレクシス・マクアリスターの叔父)という2人のアルゼンチン人選手が1991年に加入するまで外国籍選手はいませんでした。日産には以前から外国籍選手が在籍していたこともあり、チーム内でもきっと激しい競争があったんだと思います」
――森孝慈さんが監督に就任し、1992年9月5日、大宮公園サッカー場(現NACK5スタジアム大宮)でナビスコカップがスタートしました。
「駒場陸上競技場(現・さいたま市浦和駒場スタジアム)はナイター設備やバックスタンドの改修で使えなかったんです。入場者数は5000人を切るくらいで、それほど多いわけじゃないんですけど、浦和市役所の有志の方が集まって、サンバの音楽ですごい応援をしてくださいました。JSL時代のスタジアムの雰囲気とは全く違っていて。選手たちも興奮していましたね」
――そのナビスコカップでは決勝トーナメント進出はならずでしたね。そして、ナビスコカップを契機にJリーグブームが日本中を席巻するなか、1993年5月、ついにJリーグが開幕しました。当初は週に2試合という過密日程でもありました。
「試合を重ねるごとに、チームが勝てないことの怖さがどんどん増していきました。もう、本当に勝てない。タクシーに乗ると、ドライバーの方から『昨日のレッズの試合見た? 最悪だったよね。次勝てないと、ホントやばいよ。まあ、それでも試合は見に行っちゃうんだけどなぁ』なんて話をされるんです。もちろん私がレッズの職員だなんて知らないのに(笑)。帰宅途中、浦和駅に向かっていると『今日のレッズの試合どうだった?』と声をかけられることもありました。『あぁ、本当に浦和の人たちはサッカーが大好きで、昔からサッカーを愛している街なんだ』と実感しましたね」