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「あんなに弱かったのに…」浦和レッズは最下位続きでもなぜ愛されたのか? 黎明期を知る女性職員・村瀬佳代さんが見つめた“Jリーグ30年史”

posted2023/10/10 18:01

 
「あんなに弱かったのに…」浦和レッズは最下位続きでもなぜ愛されたのか? 黎明期を知る女性職員・村瀬佳代さんが見つめた“Jリーグ30年史”<Number Web> photograph by Miki Fukano

かつて“Jリーグのお荷物”と揶揄された浦和レッズ。Jリーグ開幕前からクラブで働く村瀬佳代さんは、どんな思いで仕事に励んできたのか

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寺野典子

寺野典子Noriko Terano

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Miki Fukano

1993年、「オリジナル10」の一員としてJリーグに参入した浦和レッズ。のちに3度のアジア制覇を成し遂げる人気クラブも開幕当初の成績は低迷、“Jリーグのお荷物”と揶揄されることもあった。クラブを支えるスタッフたちは、どんな思いでそれぞれの仕事を全うしていたのか。強化、広報、育成、総務、営業……。前身の三菱自動車サッカー部時代から、浦和レッズの職員としてさまざまな部署を渡り歩いた村瀬佳代さんに、濃密な30年間を振り返ってもらった。(全2回の2回目/前編へ)

◆◆◆

試合を重ねるごとに増した「勝てないことの恐さ」

――1992年にJリーグとしてのナビスコカップが始まります。チーム内での変化は感じましたか?

「日産から移籍加入された柱谷幸一さんに『三菱って案外おとなしいんだな。こんなんじゃ勝てないぞ』と言われたところからのスタートでしたね」

――日産自動車サッカー部には元ブラジル代表のオスカー(のちに監督)のほか、木村和司さんなど、いわゆるノン・アマチュアのプロ選手もいて、日本サッカーリーグ(JSL)の強豪クラブでした。

「三菱自動車サッカー部は、オスバルド・エスクデロ(エスクデロ競飛王の伯父)、パトリシオ・マクアリスター(リバプールに所属するアレクシス・マクアリスターの叔父)という2人のアルゼンチン人選手が1991年に加入するまで外国籍選手はいませんでした。日産には以前から外国籍選手が在籍していたこともあり、チーム内でもきっと激しい競争があったんだと思います」

――森孝慈さんが監督に就任し、1992年9月5日、大宮公園サッカー場(現NACK5スタジアム大宮)でナビスコカップがスタートしました。

「駒場陸上競技場(現・さいたま市浦和駒場スタジアム)はナイター設備やバックスタンドの改修で使えなかったんです。入場者数は5000人を切るくらいで、それほど多いわけじゃないんですけど、浦和市役所の有志の方が集まって、サンバの音楽ですごい応援をしてくださいました。JSL時代のスタジアムの雰囲気とは全く違っていて。選手たちも興奮していましたね」

――そのナビスコカップでは決勝トーナメント進出はならずでしたね。そして、ナビスコカップを契機にJリーグブームが日本中を席巻するなか、1993年5月、ついにJリーグが開幕しました。当初は週に2試合という過密日程でもありました。

「試合を重ねるごとに、チームが勝てないことの怖さがどんどん増していきました。もう、本当に勝てない。タクシーに乗ると、ドライバーの方から『昨日のレッズの試合見た? 最悪だったよね。次勝てないと、ホントやばいよ。まあ、それでも試合は見に行っちゃうんだけどなぁ』なんて話をされるんです。もちろん私がレッズの職員だなんて知らないのに(笑)。帰宅途中、浦和駅に向かっていると『今日のレッズの試合どうだった?』と声をかけられることもありました。『あぁ、本当に浦和の人たちはサッカーが大好きで、昔からサッカーを愛している街なんだ』と実感しましたね」

【次ページ】 最下位続きでもレッズが愛された理由

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