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JリーグPRESSBACK NUMBER
「サッカーって面白いの?」「日本でプロなんて」の声も…“三菱時代”から浦和レッズを支える女性職員に聞いた“Jリーグ誕生前夜”の物語
text by
寺野典子Noriko Terano
photograph byMiki Fukano
posted2023/10/10 18:00
前身の“三菱時代”からクラブを支える浦和レッズの職員・村瀬佳代さんに、Jリーグ誕生前夜のドラマを聞いた
「前の席が原博実さん、隣の部署に福田正博さんが…」
――1989年には日本サッカー協会(JFA)内に「プロリーグ準備検討委員会」ができていたんですが、将来的にプロリーグ化することは想定していましたか?
「私が入社したのが1990年の春だったわけですが、私の耳にはまだプロ化の話は入っていませんでしたね。そういう構想があることはうっすらと聞いていたかもしれませんが、三菱重工が参加するとか、具体的な話は入社当時ありませんでした」
――当時、JSLの多くのチームがいわゆる実業団で、アマチュア選手が中心でした。
「午前中は会社の仕事をして、午後はサッカー部の活動をするという形です。マネージャーの私も同じでした。私は勤労部勤労管理課という部署に配属されたのですが、遠征の準備など、ほとんどサッカー部に関する業務を行っていました。私の前の席が原博実さんで、隣の部署に福田正博さんがいました。福田さんは福利厚生課で、テニスコートの予約などの仕事をされていました。浦和レッズ現代表取締役社長の田口(誠)は人事部にいて、私の新人研修は田口が担当だったんです」
――のちの浦和レッズの中心人物たちに囲まれてスタートした社会人生活だったんですね。
「入社して3カ月くらい経ったときに、総監督でもある森孝慈さんと、マネージャーだった浦和レッズ前代表取締役社長の立花洋一さんから、『プロリーグに参加したいと考えているんだけど、重工からの支援は難しい。サッカー部として三菱自動車工業へ移管することになるんだけど、村瀬はどうする?』というお話がありました。大きな驚きはありましたけど、悩むことはなかったですね。『はい。移ります』と」
――村瀬さんご自身は、三菱重工で「こんな仕事をしたい」という思いもあったのでは?
「三菱重工で働くということに対する目標やイメージは、今の就活生に比べると希薄だったかもしれませんね。『この会社で社会人として立派に勤めよう』ということしか考えていなかったと思います」