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絶叫、失神するファンも…テリー・ファンクはなぜ日本でこれほど愛されたのか? カメラマンが見つめた「テキサスの荒馬」の素顔
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2023/08/29 17:22
優しげな笑みを浮かべるテリー・ファンクは「アマリロの風」になった。写真は2015年、71歳の時の肖像
恐れを知らないハードコアのレジェンドへ
右ヒザの悪化は事実で、覚悟の上での引退だった。あれだけ盛大に引退式をした男のカムバックは段階を踏んで用意されたが、それはかなり早いテンポで進んだ。お金が必要になったことも理由だった。だから1年もしないうちにカムバックの道を探るようになる。翌1984年2月の鶴田のAWA世界戦には、レフェリーとして来日した。そして、8月にはドリーのセコンドについて血ダルマにされ、ついに「日本のファンが許してくれるなら」とカムバック宣言してしまった。
容認される部分はあったにせよ、それは日本のファンに対するある種の裏切りであるのも事実だった。ストロングに戦うことができなくなったテリーは“変身”を模索する。でも、それが逆に原点なのかもしれないとも感じた。ハードコアの世界なら、まだプロレスラーとして持続することができると思ったからだ。
その後、テリーは引退とカムバックを繰り返した。FMWリングでは1993年5月5日に川崎球場で大仁田厚と大がかりな電流爆破マッチも戦った。AWA、WWF(現WWE)、ECW、WCW……。いつしかテリーはハードコア・レスラーとして再評価されていた。テリーはラダーを首にかけてグルグル回転した。
どこまでが素で、どこまでがエンターテインメントを求めたものなのかは理解に苦しんだ。テリーには危険さがあった。「恐れを知らない」という表現も当てはまった。
レスリング大好きの父ドリー・シニアがアマリロの自宅の道場で、ドリー・ジュニアやテリーを世界チャンピオンに育て上げたように、テリーもスタン・ハンセン、ディック・スレーター、鶴田、天龍らが一流のプロレスラーになるのを手伝った。
血だらけになり、無数の紙テープにくるまれて、空砲のパンチを繰り出す。そんなテリーを思い出してしまう。その姿は若かったミック・フォーリー(カクタス・ジャック=マンカインド)にも多大な影響を与えた。
テリーは「Dr. Know-it-All」「The Texan」「Chainsaw Charlie」などの名前でリングに上がったこともあった。
1944年にインディアナ州ハモンドに生まれ、テキサス州アマリロで育った男は人生の52年間をプロレスにささげた。最後の試合は2017年9月だった。
1965年に結婚した最愛の妻ビッキーが天国に旅立ったのは2019年。2023年8月、テリー・ファンクも「アマリロの風」になってしまった。79歳。
Rest In Peace,Terry,The Hardcore Legend.