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絶叫、失神するファンも…テリー・ファンクはなぜ日本でこれほど愛されたのか? カメラマンが見つめた「テキサスの荒馬」の素顔
posted2023/08/29 17:22
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
テリー・ファンクと最後に話したのは、2015年11月15日の両国国技館だった。8年前、テリーは天龍源一郎引退試合のゲストとして最後の来日を果たしていた。
「どうだい。ビールでも飲むかい」
そう声をかけてきたテリーは優しい笑みを浮かべていた。この日、テリーはすごく調子がよさそうに見えた。「ああ、元気だな」と思った。一時期は控室の廊下ですれ違ってもつれない感じだった。痛み止めを服用していたせいだろうか、目がうつろな時もあった。「あれ、忘れちゃったのかあ」と感じたこともあった。
全日本プロレス時代は、兄のドリー・ファンク・ジュニアとのファイティングポーズを撮影したこともあった。そんな時、ドリーはいろいろと話しかけてくるが、テリーは笑顔でうなずいているだけでそんなにしゃべらない、という印象が残っている。
テリー・ファンクが日本でブレイクした試合
テリーは1975年12月、ジャック・ブリスコに勝って第51代NWA世界王者になった。当時のNWA世界王者は各地で連戦に次ぐ連戦をこなし、休みはほとんどなかった。テリーは1977年2月、ハーリー・レイスに敗れるまで1年2カ月、全米をサーキットしていた。
私がテリーを初めて撮ったのは1976年6月11日の蔵前国技館だった。国技館正面側の一番後ろの板の自由席からリングを見下ろす位置だった。NWA世界王者だったテリーにジャンボ鶴田が挑戦した試合だった。
だが、私はこの試合に面白さは感じなかった。ただ、テリーのローリング・クレイドルだけが記憶に残っている。
アブドーラ・ザ・ブッチャーがザ・シークと組んだ翌1977年12月の世界オープンタッグ選手権の最終試合では、ドリーとテリーのザ・ファンクスと対戦した。この試合は今も語り草だ。
二人の悪党はフォークやアイスピックのような鋭利な凶器をテリーの右上腕に突き刺した。テリーが泣き叫ぶ凄惨なシーンに女性ファンが悲鳴をあげた。悪党たちはここまでやるのかと思うほど、容赦なく執拗に凶器を振り下ろした。
日本でテリーがブレイクしたのはこの試合だと言ってもいいだろう。これはテレビで見て、蔵前に行っておけばよかったと思った。この試合には、後のテリーというレスラーが凝縮されたものを感じたからだ。
この試合はインパクトが強すぎた。翌年、「世界オープンタッグ」は「世界最強タッグ」に名称を変更した。ドリーとテリーのザ・ファンクスはその目玉チームになった。映画スターのようなテリーの風貌は多くの女性ファンを獲得した。テリーに絶叫し、失神する客まで現れた。