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絶叫、失神するファンも…テリー・ファンクはなぜ日本でこれほど愛されたのか? カメラマンが見つめた「テキサスの荒馬」の素顔
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2023/08/29 17:22
優しげな笑みを浮かべるテリー・ファンクは「アマリロの風」になった。写真は2015年、71歳の時の肖像
感傷的な引退試合と大好きだった「サッポロ」
「オレのヒザはみんなが思っている以上に良くないんだ。オレは動ける内に身を引きたい。だから3年後の誕生日に引退するよ」
テリーが突然、引退を口にしたのは1980年だった。3年後、39歳の誕生日となる1983年6月30日にプロレスラーを引退するというものだった。テリーの右ヒザは思うように動かず、痛みを伴っていた。3年という区切りをテリーは自らに課した。プロレスラーは家を留守にすることが多い。その埋め合わせのつもりなのか、テリーは本当にプロレスラーをやめて、テキサス州アマリロの牧場で家族と暮らすことを考えていた。
当時、大相撲で快進撃を続けていた巨漢の小錦もテリーのファンだった。そのテリーが蔵前の支度部屋に小錦を訪ねてきたこともあった。
「あなたのように相撲でグランドチャンピオンになる」
小錦はテリーにそう言ったという。
約1カ月にわたる日本での引退ツアーにテリーは家族を帯同した。6月30日に引退するはずだったが、全日本の興行スケジュールの都合で8月31日になってしまった。ただ、心地いい日々だった。
その前のシリーズは「テリー・ファンクさよならシリーズ」とも銘打たれた。若い女性ファンが親衛隊としてテリーを追いかけるというムーブメントが起きた。それは異常な光景だった。
引退試合の日、ザ・ファンクスはスタン・ハンセン、テリー・ゴディとタッグマッチを戦った。スポットライトを浴びて血と汗と涙にまみれた顔で何度も「ファーエヴァー!」と絶叫するテリーに、蔵前国技館は惜別のテリー・コールに送った。あんなに感傷的な引退試合はなかったのではないか。もう40年も前のことだ。
引退試合の翌日、東京駅のそばの屋上にあったビアガーデンを借り切ってテリーのためのビア・パーティが催された。このパーティはビール好きのテリーのために「プロレス写真記者クラブ」が用意したものだった。
松葉づえをついてビッキー夫人ら家族とともに会場に姿を見せたテリーは笑顔でご機嫌だった。テリーは「サッポロ」が大好きだった。何杯ジョッキを空けただろうか。
ただ、プロレスラーの性はテリーを引退したままにさせておかなかった。ハリウッドの映画や「ダブルクロス牧場」が順調だったら、テリーはプロレスに戻らなかったかもしれない。しかし、父ドリー・ファンク・シニアの時代からスパーリングが日常だったプロレス一家ゆえに、プロレスに別れを告げることができなかった。