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《追悼》空手道場の看板を奪われ、裸足で雪中撮影も…青柳政司が歩んだ“激動のプロレス人生”「館長、そちらでもバット折っていますか」
posted2022/07/16 06:00
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
友人から送られてきた何枚かの写真がある。7月6日に65歳で亡くなった青柳政司館長の葬儀のものだ。遺影が見える。斎場には多くの関係者が集い、その中には手を合わせる越中詩郎や齋藤彰俊の姿も写っている。
「館長」の愛称で親しまれた青柳は1979年、23歳で地元の愛知県豊田市に誠心会館という小さな空手道場を開き、ちびっ子や若者たちの指導を始めた。
青柳はプロレスが好きで外国人レスラーに憧れを抱いていたが、プロレスラーになれるような大きな体ではなかった。だが、30歳を過ぎてから、運命のいたずらでプロレスの世界に足を踏み入れることになった。
子どもたちが通う空手道場の看板を奪われたことも
1989年、大仁田厚との戦いに始まった青柳のプロレス人生は波瀾万丈だった。新日本プロレスのリングでも殺伐とした試合が続いた。血の気の多い獣神サンダー・ライガーや小林邦昭、越中詩郎らとの試合は壮絶を極めた。
のちに平成維震軍を結成する小林と越中との抗争では、道場の看板まで外されてしまうという屈辱も味わった。1992年4月30日には両国国技館で弟子の齋藤が小林に敗れ、5月1日には千葉ポートアリーナで青柳が越中に敗れた。その模様は全国にテレビ中継された。
誠心会館の古い看板を手にした小林が、控室でしみじみとこう口にした。
「こんなの取られたら、魂が抜けたみたいになっちゃうだろうな」
後に看板は道場に戻ってきた。ずいぶん経ってから青柳とその話になったとき、当時に戻ったように悔しそうな表情を浮かべた。
「子どもたちがいっぱい通っているんですよ。空手道場の看板ですよ。あそこまでやりますか。やっちゃったけれど……」
青柳はそう言ってちょっと笑ったが、心は笑っていなかった。看板を外された当時、子どもだった弟子の1人が同席していて、その話を頷きながら隣で聞いていた。