「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER

「空白の26日間」で広岡達朗に抱いた反発…“ヤクルトの初代胴上げ投手”松岡弘がそれでも感謝を口にする理由「野球観の8割は広岡さんの影響」

posted2023/08/21 17:03

 
「空白の26日間」で広岡達朗に抱いた反発…“ヤクルトの初代胴上げ投手”松岡弘がそれでも感謝を口にする理由「野球観の8割は広岡さんの影響」<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

「広岡さんには感謝しかない」――通算191勝を挙げたヤクルトの大エース・松岡弘にとって、監督・広岡達朗とはどんな存在だったのか

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長谷川晶一

長谷川晶一Shoichi Hasegawa

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Yuki Suenaga

ヤクルトスワローズの初優勝がかかる大一番。紆余曲折を経てそのマウンドに立った松岡弘は、シーズン中に約1カ月間も登板機会を与えなかった指揮官・広岡達朗に対してどんな思いを抱いていたのか。「僕の野球観の8割は広岡さんの影響」――1978年の日本一の原動力となったエースの言葉から、冷酷や厳格といったイメージを超えた「人間・広岡達朗」の素顔を探った。(松岡弘編の#4/#1#2#3へ)※文中敬称略、名称や肩書きなどは当時

優勝決定戦で広岡達朗が見せた「情」

 1978年10月4日、マジック1で迎えた対中日ドラゴンズ24回戦――。球団創設29年目にして初となる大一番のマウンドに立ったのがエース・松岡弘だった。

「5回ぐらいからかな、“胴上げ投手になりたいな”と思い始めたのは……。初回にいきなりヒルトンの先頭打者ホームランが飛び出して、その後にも3点。いきなり4対0になって、相手打線もヤル気がないというのか、戦意喪失しているし、僕自身も調子はよかった」

 その後もヤクルトは小刻みに加点し、3回終了時点で8対0となっていた。松岡のピッチングは、尻上がりに勢いを増していく。

「ヤクルトは追加点を挙げるし、僕はひょいひょい、ひょいひょい投げ続ける。そうすると1球ごとにお客さんの声援も盛り上がってきたんです。それまで満員になんかならなかったのに、この日は超満員。グラウンドが揺れるぐらいにワイワイし始めたのが7回ぐらいから。この頃にはすでに“よし、オレが胴上げ投手だ。喜びを味わえるぞ”という思いになっていましたね(笑)」

 一塁側ベンチで戦況を見つめる広岡達朗監督は微動だにしない。大事な一戦をエースに託している。それは、松岡に対する信頼の表れだったのだろうか?

「広岡さんが僕を信頼してくれたのかどうかはわからない。でも、シーズン中に1カ月近くも投げさせてもらえず、その間にずっと悔しい思いを味わった。その間に頑張ったから、“最後にご褒美はお前にやるぞ”と思ってくれたんじゃないのかな? “胴上げ投手は松岡にやらせてあげたい”という思いもあったんじゃないのかな?」

 そして、松岡はこうつけ加えた。

「仮にそんな思いがあったとしても、決して口に出して言う人じゃないけどね(笑)」

【次ページ】 日本シリーズ第7戦、ついに日本一のマウンドへ

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