「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「空白の26日間」で広岡達朗に抱いた反発…“ヤクルトの初代胴上げ投手”松岡弘がそれでも感謝を口にする理由「野球観の8割は広岡さんの影響」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byYuki Suenaga
posted2023/08/21 17:03
「広岡さんには感謝しかない」――通算191勝を挙げたヤクルトの大エース・松岡弘にとって、監督・広岡達朗とはどんな存在だったのか
「抗議中に休んだおかげで、感覚としては120%ぐらい復活したイメージでした。元々、ガーッて追い込んでヘトヘトになっても、ちょっと休めばすぐに回復できる体質だったけど、このときはそれが幸いしましたね。後に、阪急の上田監督と何回も対談させてもらったけど、“お前、あの直後からピッチングが変わったよな”って言われました。簑田(浩二)にも“松岡さん、ピッチングが変わりましたよね”って(笑)」
この日、松岡は136球を投じて、阪急打線を無得点に抑えた。ペナントレースの優勝決定戦同様、完封勝利で見事に胴上げ投手となったのだ。ヤクルト4勝のうち、松岡は2勝2セーブを記録。すべての勝利で、彼の右腕がうなりを上げたのである。
「それは偶然だけど、大事なところで任せてくれた広岡さんのおかげですよ。シーズン途中にはまったく投げさせてくれなくて腹も立ったけど、それでも最後にはこんないい場面を任せてもらって……。やっぱり、広岡さんには感謝の思いしかないよね」
「広岡さんからのご褒美」を大切に携えながら
広岡がヤクルトの監督を務めたのは1976年シーズン途中から、79年シーズン途中までの実質3シーズンだった。広岡がヤクルトにもたらしたものは何か? 松岡が広岡から学んだことは何か? 質問の答えはシンプルなものだった。
「勝つ味、かな?」
続く説明を待った。松岡がゆっくりと口を開く。
「……広岡さんから教わったのは勝つ喜びでした。いくら自分の成績を残しても、それだけでは本当の喜びじゃない。勝つ喜びを知るために、プロとして何をすべきなのか。プロである以上、チームとして勝つ喜びを知らなくちゃいけない。そんなことを広岡さんから教わった気がしますね」
78年シーズン、心身ともに何も問題はなかったのに、登板機会を剥奪された。「空白の26日間」について、松岡は今でも「あのときは腹も立ったし、恥ずかしかった」と表情をゆがめる。それでも、この間に得たものの大きさを、今では確かに実感している。