「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「巨人のユニフォームを見ただけでチビったよね(笑)」ヤクルトの大エース・松岡弘が語る“全盛期の王・長嶋”の恐ろしさ「とにかく重圧が…」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byJIJI PRESS
posted2023/08/21 17:02
昭和のプロ野球の象徴ともいえる巨人の王貞治と長嶋茂雄。全盛期のONと対戦した松岡弘は「とにかく重圧がすごかった」と当時を振り返る
しかし、74年限りで長嶋は現役を引退し、王はすでに30代後半を迎えていた。Ⅴ9戦士である柴田勲、高田繁、土井正三も高齢化していた。対する松岡は31歳となり、心身ともに充実のときを迎えていた。入団直後とは比較にならない成長を遂げていた。
「長嶋さんの引退後に、張本勲さんが加入しました。でも、王さん、張本さんと左打者が続くので、僕はそれほど嫌な感じはしなかった。王さんも全盛時の怖さはなくなっていた。助っ人のシピンも確かに強打者だったけど、彼の場合はとにかく怒らせておけばいい。インコースに投げれば勝手に一人でカッカしている。それほど怖さは感じなかったですよ」
就任直後から「ジャイアンツコンプレックスの払拭」を掲げていた広岡の思い。30代を迎えたばかりの松岡弘、安田猛、若松勉、大矢明彦による「花の昭和22年組」の円熟。そして巨人打線の高齢化による戦力低下……。こうしたすべてのことが、見事に合致したのが78年シーズンだったのだ。
参謀・森昌彦の多大なる功績
広岡が目指した「ジャイアンツコンプレックスの払拭」において、重要な役割を果たしたのが、この年からバッテリー作戦コーチに就任した森昌彦(現・祇晶)である。監督就任初年度となる1976年オフには断られたものの、広岡は2年越しでラブコールを送った。森の自著『勝つための参謀学』(講談社文庫)から引用したい。
《ヤクルト選手のジャイアンツに対する劣等感は、ひどいものだった。はじめから勝つことのできない相手と決めてかかっているようなところが見受けられた。》
そのため、森が講じたのが「徹底的に解剖」することだった。
《ジャイアンツの選手を徹底的に解剖して、それをヤクルトの選手と対照させた。ポジション別にヤクルトの選手とジャイアンツの選手とを比較分析して、総合的な力関係においては自分たちがジャイアンツに劣るところはなにもないんだということを、理論的に説明した。
それによって、ジャイアンツといえども決して恐るるに足りない相手なのだということを、何度も選手たちにいいきかせた。》