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「“ジーコを説得する”と口説かれた」「タバコ、酒はやめよう」“鹿島アントラーズ=常勝”の背景にW杯優勝ジョルジーニョの教え
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byKoji Asakura
posted2023/08/13 11:01
鹿島アントラーズ時代のジョルジーニョ
「2試合とも、内容では決して劣っていなかった。絶対的なチャンスを決めきれなかったのと、守備面でミスが出てしまった。とても残念だった」
――1998年には、再びJリーグを制覇します。この年のCSも、ジュビロ磐田との対決でした。
「当時の磐田との試合は、いつも非常に難しかった。でも、我々は前年よりもクラブとして、チームとして成熟していた」
――これら4つのタイトルの中で最も印象に残るのは?
「1996年のJリーグ初優勝だね。クラブも選手も、あのタイトルで大きな自信を手にし、格別の喜びを味わった。そのことが、日本一の強豪クラブに成長する土台となったのだと思う」
(注:鹿島のJリーグ、Jリーグカップ、天皇杯、AFCチャンピオンズリーグの合計優勝回数は20で、浦和レッズの10、ガンバ大阪の9、ジュビロ磐田の7を大きく上回って最多)
鹿島では私も家族も最高の時間を過ごすことができた
――1998年限りで鹿島を退団し、ブラジルへ帰国します。横浜フリューゲルスの横浜マリノスへの吸収合併が象徴するように、当時、Jリーグの多くのクラブの経営が揺らいでいました。
「アントラーズも例外ではなく、多くの選手に給料の大幅ダウンを求めていた。私は、1989年にレバークーゼンへ移籍して以来、外国生活が10年に達していた。子供の教育などを考えて帰国を決意し、サンパウロへ加入した。1999年にサンパウロ、2000年にヴァスコダガマ、2001年にフルミネンセでプレーした後、2002年7月、38歳になる直前に現役を引退した」
――1982年に17歳でデビューしてから21年間の現役生活でした。
「ブラジル、ドイツ、日本のビッグクラブでプレーし、代表では世界の頂点を極めた。幼い頃から地道な努力を積み重ね、周囲の人々の助けもあって、非常に幸せな選手生活を送ることができた。とりわけ、アントラーズでは素晴らしいサポーターとクラブ関係者のお陰で、私も家族も最高の時間を過ごすことができた」
◇ ◇ ◇
選手としてやるべきことをやりつくした男は、現役引退後、指導者の道に入る。しかし、選手時代と同様、これまた決して平坦な道のりではなかった。
<#3につづく>