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「“ジーコを説得する”と口説かれた」「タバコ、酒はやめよう」“鹿島アントラーズ=常勝”の背景にW杯優勝ジョルジーニョの教え

posted2023/08/13 11:01

 
「“ジーコを説得する”と口説かれた」「タバコ、酒はやめよう」“鹿島アントラーズ=常勝”の背景にW杯優勝ジョルジーニョの教え<Number Web> photograph by Koji Asakura

鹿島アントラーズ時代のジョルジーニョ

text by

沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph by

Koji Asakura

 鹿島アントラーズの常勝時代の礎となり、ブラジル代表のレジェンドであるジョルジーニョ(58)。現地インタビューの続きです。(全3回の2回目/初回#1から読む)

 アメリカFCとフラメンゴ(ともにブラジル)、レバークーゼン、バイエルン(いずれもドイツ)で活躍し、1994年ワールドカップ(W杯)で優勝して大会ベスト11に選ばれた――。

「世界一の右SB」ジョルジーニョがW杯の翌年、鹿島アントラーズに加わった。

 一方、鹿島では、1994年6月に大黒柱ジーコが引退し、ゴールを量産していたCFアルシンドが宿敵ヴェルディ川崎へ移籍。クラブは転換期を迎えていた。

「ジーコを説得するから、鹿島へ来てくれないか」と

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――1995年に鹿島へ移籍した経緯は?

「1994年後半にまず柏レイソル、続いてスペインのクラブからオファーを受けたが、バイエルンとの間で合意が成立しなかった。その後、1994年の前半はコーチで、後半からは監督を務めていたアントラーズの監督を務めていたエドゥー(ジーコの兄)から誘いを受けた。

 6月にジーコが引退した。アルシンドも、今年限りで退団する。ジーコは来年(1995年)から鹿島のテクニカル・アドバイザーを務めるが、『アルシンドの代わりが務まるブラジル人ストライカーを補強しよう』と言っている。『しかし、私はツートップはクロサキ(黒崎久志)とハセガワ(長谷川祥之)に任せられると思っており、中盤で攻守に貢献し、なおかつチームリーダーの役割を果たしてくれる選手が欲しい。それには君が適任だと思う。ジーコを説得するから、アントラーズへ来てくれないか』と口説かれた」

――エドゥーは、アメリカFCのアカデミーであなたを退団の淵から救ってくれ、トップチームでも引き立ててくれた人ですね。

「その通り。フットボールの世界における父親のような存在だ。選手としても人間としても、私のことを知り尽くしている。一方、ジーコは子供時代からの憧れで、数年間、フラメンゴで一緒にプレーした。彼がアタッカーを欲しいと考えたのは自然な発想で、そのことで気を悪くすることはなかった。

 エドゥーがジーコを説得し、バイエルンとアントラーズとの間で交渉がまとまり、私のアントラーズ入りが決まった。1995年1月、妻と3人の幼い子供と共に日本へ渡った」

ブンデスも素晴らしかったが、日本の運営はそれ以上

――日本へ到着する前、日本、Jリーグ、鹿島に関する情報は得ていましたか?

「セレソンで一緒にプレーしたレオナルド(94年から96年まで鹿島)から、日本とJリーグについてポジティブな話を聞いていた、もちろんエドゥー、ジーコ、そしてMFサントスからも情報をもらった。Jリーグの試合映像も見た」

――実際に日本へ渡って、Jリーグの運営とレベルをどう思いましたか?

【次ページ】 ホンダ、ナラハシにはすべて教えたつもりだ

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