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「父死去の3カ月後、姉が事故で即死。兄はドラッグで…」鹿島アントラーズとブラジル名SBジョルジーニョ58歳が“悲惨な苦難”を語る
posted2023/08/13 11:00
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Hiroaki Sawada
ブラジルの名門フラメンゴで、ドイツの超名門バイエルン・ミュンヘンで、Jリーグの強豪・鹿島アントラーズで、そしてセレソン(ブラジル代表)で中心選手として活躍。ワールドカップ(W杯)で優勝して大会ベスト11に選ばれ、Jリーグ初制覇の立役者となってMVP――。輝かしい経歴を持つレジェンドは、リオの高級住宅地バーハ・ダ・チジュッカの壮麗なマンションの高層階でにこやかに迎えてくれた。
広々としたリビングルームの窓からは、2016年リオ五輪のために建設されたゴルフコースが一望できる。
セザール・サンパイオ(元横浜フリューゲルス、セレソンなど)の笑顔は素晴らしかったが、この男の笑顔も負けず劣らず魅力的だ。そして、サンパイオ同様、彼が少年時代に味わった苦難は普通の日本人には到底及びもつかない類のものだった――。
憧れの選手は、フラメンゴの大スターだったジーコ
――どのような家庭に育ったのでしょうか?
「7人きょうだいの末っ子。父は郵便局の職員だったが、大勢の子供を養うため、本業以外にも近所の家のテレビのアンテナを修理したり、パン屋のレジで働いていた」
――フットボールを始めたのはいつ頃ですか?
「4~5歳から友人たちとボールを蹴った。6歳のときに1970年W杯があり、ペレ、ジャイルジーニョ、トスタン、リベリーノらの名手が華麗なプレーを繰り広げ、セレソンが通算3度目の優勝を遂げたのを見た。『自分もプロ選手になりたい』と強く思った。
当時の憧れの選手は、フラメンゴの大スターだったジーコ。FK、ドリブル、パス、シュートのすべてが芸術品だった。住んでいたアパートの前に、ピッチがあった。カターニャという人がアマチュアクラブを運営しており、8歳のとき少年チームに入った」
――当時のポジションは?
「センターバック。昔も今も小柄だけど、守備に自信があったからね。CBとしてはあまりにも小さかったから『ジガンチ』(巨人、大男)と呼ばれていた。もちろん、皮肉の意味でね(笑)」
10歳で父、3カ月後に姉が亡くなり、兄も…
――幼くして、父親を亡くしたそうですね。
「私が10歳のとき、近所の家のテレビのアンテナを修理するため屋根に登っていて、足を滑らせて頭から落下。数日後に亡くなった。一家全員が悲嘆に暮れた。それまで母は専業主婦だったが、近所の家のお手伝いさんなどの仕事をして子供たちを養った。
父が亡くなってから3カ月後、今度は姉の一人が自動車事故で即死。度重なる不幸に、家族全員が打ちひしがれた。9歳上の兄は酒浸りになり、7歳上の兄はドラッグに溺れた」
――悲惨な状況ですね。