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「“ジーコを説得する”と口説かれた」「タバコ、酒はやめよう」“鹿島アントラーズ=常勝”の背景にW杯優勝ジョルジーニョの教え
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byKoji Asakura
posted2023/08/13 11:01
鹿島アントラーズ時代のジョルジーニョ
「セレソン(ブラジル代表)では常に右SBだったが、バイエルンではほぼ常にボランチ。ピッチの中央でプレーして攻守両面にからむ楽しさに目覚めた。さらに、アントラーズではかなりのゴールをあげることができて嬉しかった(注:すべての大会を合計して、4シーズンで160試合に出場して31得点)」
――日本での生活にはすぐに順応できましたか?
「鹿島は小さな町で、人々はとてもフレンドリーだった。我々ブラジル人選手とスタッフは同じエリアに住み、クラブスタッフが万全のサポートをしてくれたので、快適な生活を送ることができた」
MVPを受賞した嬉しさは今でも覚えている
――セレソンでは、1995年8月、国立競技場で行なわれた日本との親善試合に出場(注:ブラジルが5-1で圧勝)。これがあなたのセレソンでの最後の試合となりました。
「この試合の終了間際に、筋肉系の故障をしてしまった。セレソンは3日後に水原で韓国と対戦することになっていたが、代表のドクターの診断と理学療法士の見立ては『韓国戦への出場は不可能』というもので、僕はアントラーズへ戻った。
ところが、アントラーズの理学療法士が極めて優秀で、故障をたちまち治してくれたので、韓国戦と同じ日に行なわれたJリーグの試合にフル出場した。それを知って、セレソンのザガロ監督(当時)が僕に不信感を抱いたらしく、以後、セレソンに招集されなくなってしまった。まあ、僕より(6歳)年下のカフーが台頭していたという事情もあったんだけどね」
――あなたの攻守両面における貢献があって、1996年、鹿島はクラブ史上初の年間優勝を成し遂げます。
「シーズン序盤はブラジル人3人(エバイール、ジーニョ、サンパイオ)を擁する横浜フリューゲルスが突っ走った(開幕から8連勝)。でも、我々も攻守のバランスを整えながら、粘り強く戦った。7月にMFレオナルドが退団(パリ・サンジェルマンへ移籍)したけれど、チーム全体の力でその穴を埋めた。
第29節で優勝を争っていた名古屋グランパスを4-2で下し、最終節で16点差で負けない限り優勝、という状況になった。あのときの嬉しさは忘れられない」
――あなたは、このシーズンのMVPとベスト11に選ばれました。
「表彰式で自分の名前が呼ばれ、いきなり無数のカメラのフラッシュを浴びた。あのときの嬉しさと晴れがましさは、今でもよく覚えている」
磐田との試合は、いつも難しかった
――翌1997年は、Jリーグカップと天皇杯を制覇。Jリーグは、ファーストステージを制覇し、年間勝ち点合計は最多でしたが、チャンピオンシップ(CS)でジュビロ磐田に敗れて準優勝。惜しくも三冠を逃しました。