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〈追悼〉降板を直訴して津田恒実さんを胴上げ投手に…北別府学さんの思い出とカープ黄金期の輝き「他球団の選手とは口もきかない」「薩摩のサムライでした」 

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小早川毅彦

小早川毅彦Takehiko Kobayakawa

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photograph byKoji Asakura

posted2023/06/22 11:04

〈追悼〉降板を直訴して津田恒実さんを胴上げ投手に…北別府学さんの思い出とカープ黄金期の輝き「他球団の選手とは口もきかない」「薩摩のサムライでした」<Number Web> photograph by Koji Asakura

正確無比なコントロールを武器に、広島のエースとして黄金期を築いた北別府さん

胴上げ投手を譲った津田さんへの思い

 1986年にセ・リーグ優勝を決めた試合は神宮球場のヤクルト戦で、北別府さんが先発でした。いつも通り、安定したピッチングで8回を投げたところで5点のリード。9回完投もできる状況だったんですが、北別府さんはマウンドを降りた。その年リリーフで復活を遂げた故・津田恒実さんに投げさせてあげたい、胴上げ投手にしてあげてほしい、と当時の阿南準郎監督に直訴したのだと聞きました。

 逆に北別府さんの200勝が近づいた時は、「なんとかペーさん(北別府さんの愛称)を勝たせたい」とチームが一丸となっていました。山本さん、衣笠さんなど、野手の2000本安打はあったけれど、ピッチャーの金字塔というのはカープでは初めてでしたから。1992年7月16日、ナゴヤ球場での中日戦でしたね。あの日はものすごく暑くて、汗をダラダラとかきながら北別府さんが頑張っていたのを今でも覚えています。当時は水を飲んだらバテるというのが定説だったので、北別府さんも水をほとんど取らずに投げ続けていました。

 私はその試合で一塁を守っていましたが、2回無死一、二塁の場面でバント・エンド・ランの打球を捕球してトリプルプレーを完成できたことも今となってはいい思い出です。右肘の故障も乗り越えて復活して辿り着いた、エースの金字塔。チームのみんなが自分のことのように喜んでいました。

 思い返せば、カープの黄金期の節目節目の場面ではいつも、マウンドに北別府さんが立っていた。一言で言えば武士のような方。鹿児島生まれですから、西郷隆盛のような“薩摩のサムライ”でした。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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