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「松井秀喜さんは歴史上の人物みたいな感じ」なぜ秋広優人20歳から“巨人で55番のプレッシャー”を感じない? 「原巨人は若手が育たない」の終わり
posted2023/06/22 17:28
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
JIJI PRESS
「番号が野球をやるわけではないですから……。55番から44番になった時は寂しい思いもありました。でも僕が決めた事でもないので、そんなに深刻に考える必要もなかった。ただ、僕は頑張って結果を出して、ファンの方々からもう一度認めてもらおうと思いました」
これは2015年3月、東京ドームで巨人時代の大田泰示に「背番号変更」について質問した際の回答だ。前年に入団から5年間つけた55番に別れを告げ、44番で再出発。言葉の端々から、「あの松井秀喜のあとに巨人で55番を背負うプレッシャー」の重さを感じた。1990年生まれの大田は、テレビをつけたら毎晩巨人戦を地上波中継していた時代を知る最後の世代だろう。
しかも、大田が巨人からドラフト1位指名を受けたのは、松井がニューヨークへ去ってからわずか5年後のことだ。まだ、その記憶が鮮明で、背番号55の先輩がヤンキースのクリーンナップを打つストーリーもリアルタイムで進行中だった。そういう状況の中で巨人の55番を託されたのだ。当然、フロントも首脳陣もファンも、過剰な期待を懸けた。いわば、内外から背負わされた異様な重圧の中で、大田は常に松井秀喜の幻影と比較されていたのだ。
「崖っぷちの時に、自分が今までしてきた努力を自分で信じられるように、それが嘘でないと自分で思えるように、日々を積み重ねておきたい」と真摯な表情で答えてくれた背番号44だったが、巨人の8年間では結果を残せず、トレード先の日本ハムで開花。新天地では外野手部門のゴールデン・グラブ賞を受賞して、1億円プレーヤーにもなった(現在はDeNAに在籍)。
「松井さんは歴史上の人物みたいな感じ」
さて、対照的に今の巨人で55番をつける秋広優人には、その手の周囲からの過剰なプレッシャーはほとんど感じない。
入団2年目に、68番から55番へと変更。迎えた3年目の今季、秋広は4月22日のヤクルト戦(神宮)に「7番・左翼」でプロ初スタメン。その試合でプロ初安打初打点を記録すると、29日の広島戦(東京ドーム)で初アーチと結果を残し続け、5月25日のDeNA戦(東京ドーム)では、球団の20歳以下では松井秀喜以来となる3番で起用された。