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「暴走行為で逮捕&対戦相手の死亡」平凡なボクサーが天才“浪速のジョー”と死闘するまで…29年前“伝説の薬師寺vs辰吉”はなぜ実現したか?
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byKYODO
posted2023/04/06 11:01
1994年12月4日、伝説の「薬師寺保栄対辰吉丈一郎」。中部で視聴率約52%、関東でも約40%を記録した歴史的な一戦だった
それだけならさしたる問題はなかったかもしれないが、その辰吉が1994年7月2日にWBC世界バンタム級14位のホセフィノ・スアレス(メキシコ)を3RKOで下し、1年ぶりの復帰戦を飾ると、不可解なことにWBC本部は消失させたはずの暫定王者に辰吉を復帰させたのだ。正規王者である薬師寺にとって、これほど納得のいかない話もなかったに違いない。正規王者と暫定王者の隔たりが、こうまで曖昧になったことは、それ以前はもちろん、以後も一度もないからだ。
本来なら経緯を改めて検証すべきであり、WBCの処置に非を打ち鳴らすべきだったかもしれないが、「辰吉の試合をもう一度日本で見られるかもしれない」という期待感の前にそれらの正論は雲散霧消した。筆者もその一人だった。単純に嬉しかったし一刻も早く辰吉の試合を日本でもう一度観たかった。
そして7月31日に、薬師寺が前王者の辺丁一の指名挑戦を11RTKOで退けると、JBCも日に日に高まる待望論を無視出来ず「日本人同士なので、日本でやるのがベスト。JBCもその旨は分かっているはずだ」(1994年8月1日付/読売新聞)というWBC会長(当時)ホセ・スライマンによる“外圧”にも屈する形で、JBCの小島茂事務局長(当時)は「暫定王者の事実を認めないわけにはいかなかった」(1994年8月10日付/読売新聞)と辰吉陣営に次の特例を提示した。
(1)試合前後の眼科医による診断書提出を義務付けること
(2)診断結果で異常があった場合と、薬師寺との統一王座決定戦に敗れた場合も即刻現役引退とすること
(3)ルール改正ではなく、辰吉一人のみに施行する特例とすること
「今回は日本に尽くしてきた辰吉の価値をしん酌してのもので、特例はこれが最初で最後」(小島茂/1994年8月10日付/日刊スポーツ)
以上の項目を辰吉本人と所属する大阪帝拳ジムが了承したため「WBC世界バンタム級統一王座決定戦/王者・薬師寺保栄対暫定王者・辰吉丈一郎」は正式に決まった。
「負けたら引退」という条件は辰吉にとって大きな負荷となったはずだが、本人はそのことには触れずこう述べている。
「リングに上がれる、世界戦ができる、それだけでも涙が出るほどうれしい。まわりの人たちがここまでやってくれたことに本当に感謝します」(『ボクシング・マガジン』1994年9月号)
その前にはこうも言っている。
「相手が決まってホッとしました。(中略)日本人同士の戦いは、何か残るものがあるのであまりやりたくないですよ」(1994年8月1日付/読売新聞)
この時点ですでに“いわくつきの一戦”として、異様な興奮をともなって伝えられたが、いずれも波乱の序曲にすぎなかった。
<続く>
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