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「暴走行為で逮捕&対戦相手の死亡」平凡なボクサーが天才“浪速のジョー”と死闘するまで…29年前“伝説の薬師寺vs辰吉”はなぜ実現したか?
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byKYODO
posted2023/04/06 11:01
1994年12月4日、伝説の「薬師寺保栄対辰吉丈一郎」。中部で視聴率約52%、関東でも約40%を記録した歴史的な一戦だった
これらを振り返って筆者が感じたのが矢吹丈とのそこはかとない共通点である。人気漫画『あしたのジョー』の主人公の矢吹丈は、暴力沙汰で少年院に入れられ、そこでボクシングを本格的に習得、生涯のライバルとなる力石徹と出会う。プロのリングで拳を交えた両者だが、激闘の末に勝利を収めた力石は試合後のリング上で昏倒、そのまま息を引き取ってしまう。「丈一郎」という名前から、辰吉こそ矢吹丈の印象を多くの人に抱かせてはきたが、実は薬師寺も同様の影を引きずっているように見えなくもない。
暴走行為で逮捕、対戦相手の死──2つの出来事で薬師寺は生まれ変わったのかもしれない。米坂戦から1年後の1991年6月30日には尾崎恵一(オサム)を破り日本バンタム級王座を獲得し、世界ランキングに名を列ねたのと前後して、松田ジムは名トレーナーのマック・クリハラをロサンゼルスから招聘、薬師寺のチーフトレーナーに据えている。
「あれぐらい倒さなアカン」“3年前”の薬師寺対辰吉
この頃、薬師寺と辰吉は一度拳を交えている。薬師寺が日本王者になった直後の1991年8月30・31日の2日間、世界戦を控えた辰吉のスパーリングパートナーとして、薬師寺は大阪まで出向き、合計8Rのスパーリングを行った。そのときの模様を記事は手短にこう伝えるのみである。
「8月30日と31日には日本バンタム級チャンピオンの薬師寺保栄ともスパー。辰吉はリチャードソン戦に備え、相手をコーナーに詰めたら瞬間的にサウスポーにチェンジして連打する工夫も試みている」(『ボクシングマガジン』1991年10月号)
辰吉はこのときのことを、次のように振り返っている。
「3年前にスパーリングやったゆうても、オレ減量中のフラフラのときやったもん。薬師寺は思っていたよりうまかったけど、あまり覚えてないなぁ。あれぐらい倒さなアカンと思っていたのに倒せなかったのは覚えているけど、ボコボコにしたつもりもないし、内容はわからん」(『ボクシング・マガジン』1994年10月号)
筆者は辰吉戦から15周年となる2009年12月に、薬師寺保栄本人をゲストに招き、「薬師寺保栄と一緒に辰吉戦をフルラウンド視聴する」という妙なトークライブを開いたことがあった。そのとき彼が発したコメントがある。
「あのスパーリングでは打たれましたね。それと巧さ。上下の打ち分けが上手でした。思ったよりパンチはないと思ったけど。彼は連打でまとめるタイプなんでね。プレッシャーのかけ方も勉強になりました」
その後、マック・クリハラの指導で素質を開眼させた薬師寺が、世界ランキングを駆け上がり、辰吉の眼疾という事情もありながら、辺丁一を破り世界王者に就いたのはフロックでも何でもなく「薬師寺こそ辰吉の後継者」という見立てを多くのファンが抱いたのも、あながち間違っていなかったと言えるのである。
「負けたら現役引退」の条件
韓国の辺丁一を破ってWBC世界バンタム級王者となった薬師寺保栄だが、ここで想定外の事態に見舞われる。元王者の辰吉丈一郎がJBCの引退勧告を無視して現役続行を宣言したのである。国内最大手の帝拳プロモーションのバックアップを得て「日本国内で試合が組めないのなら海外で」という異例の行動に出た。