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「暴走行為で逮捕&対戦相手の死亡」平凡なボクサーが天才“浪速のジョー”と死闘するまで…29年前“伝説の薬師寺vs辰吉”はなぜ実現したか?
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byKYODO
posted2023/04/06 11:01
1994年12月4日、伝説の「薬師寺保栄対辰吉丈一郎」。中部で視聴率約52%、関東でも約40%を記録した歴史的な一戦だった
放映権を獲得した中部日本放送(CBC)のキー局であるTBS系列はもちろん、放映権を逃がした日本テレビ系列、それ以外のフジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京、NHKまでが連日試合に向けて大きく報じた。むしろ、過熱報道気味ですらあった。
「そりゃ地上波しかない時代なんだから当然だ」という意見もあろうが、であるなら、多チャンネルの現在は、もっと盛り上がらないといけないように感じる。
29年前の「薬師寺対辰吉」がいかなる事情から、異常とも言える空前の盛り上がりを見せたのか。なぜ、ファンやマニアの枠を超えて、一般大衆まであの試合を待ち焦がれたのか。辰吉が人気者なのはわかるが、ただそれだけなのか。
誤解を恐れずに言うと、実際に行われた試合以上に「試合前」がこれほど白熱したのは、筆者の知る限りにおいて後にも先にもない。こうまで波乱と混乱が交互に発生したのも記憶にない。
そこで今回「薬師寺対辰吉」の一戦がいかなる事情でそのプランが浮上し、いかなる経緯をへて実現へとこぎつけたのか、そのことを、試合前後の出来事に限って、順を追って書き記しておきたいと思う。
「じつは現役引退の危機だった辰吉」
まず──辰吉丈一郎が日本新記録(当時)となるプロ8戦目でWBC世界バンタム級王座を奪取した1991年まで、さらに時計の針を巻き戻してみたい。
早熟の天才ボクサー、辰吉丈一郎がグレグ・リチャードソン(アメリカ)を破り、WBC世界バンタム級王座を獲得したのは1991年9月19日。その2カ月後、左目の網膜裂孔が判明し関西医大病院に緊急入院している。当時の日本ボクシングコミッション(JBC)のルールで引退が義務付けられる網膜剥離ではなかったことと、比較的軽症だったのが不幸中の幸いだったが、予定していた初防衛戦は中止となった。
本来ならここで世界王座を返上すべきだったかもしれないが、WBCはランキング1位だったビクトル・ラバナレス(メキシコ)を暫定王者に据え、辰吉の代わりに防衛戦を行わせることで承認料を徴収しようと目論んだ。そのための苦肉の策だった。
とかく評判のよくない「暫定王者制度」は、1952年、世界フェザー級王者のサンディ・サドラー(アメリカ)が兵役に就いている間に、パーシー・バセット(アメリカ)を暫定王者に認定し、防衛戦を肩代わりさせたことをその起源とするが、今につながる暫定王座の粗製乱造は、1991年の辰吉の長期欠場にその原点を見ることが出来る。