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蝶野正洋が明かしていた”闘魂三銃士”武藤敬司との決別「頭にきたんだ!」武藤なき新日本プロレスのリングでアントニオ猪木に放った一言
 

text by

二宮寿朗

二宮寿朗Toshio Ninomiya

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photograph byToshiya Kondo

posted2023/03/06 17:00

蝶野正洋が明かしていた”闘魂三銃士”武藤敬司との決別「頭にきたんだ!」武藤なき新日本プロレスのリングでアントニオ猪木に放った一言<Number Web> photograph by Toshiya Kondo

武藤敬司の「デビュー25周年興行」に出場した蝶野正洋(2009年撮影)

 1984年4月21日。これが3人が新日本に入門した日である。当時の新日本は、ジャパンプロレス、UWFに選手が大量離脱するという危機に直面していた。彼ら3人はその状況下、促成栽培で育てられた。そして、猪木の後継者であることを強調するように「闘魂三銃士」と名づけられ、80年代後半から始まる第3次プロレスブームの火付け役となるのだ。 

 その中で蝶野は、華麗な武藤、豪快な橋本と比べると、目立った特徴がない分、地味な存在だった。しかし、白を基調としていたコスチュームを黒に変えてヒールに転向し、自己主張を見せるようになると一気に存在感を増した。その助けとなったのが、ハルク・ホーガンたちが米WCWマットで起こした「nWo」ブームを日本に持ち込んだことだ。Tシャツを25万枚売り上げるなど、社会現象となった。 

ワルくて強くて、カッコいいーー新しいヒール像

 強面の顔にサングラスをかけ、入場曲の「CRASH」に合わせて登場すれば、会場の盛り上がりは最高潮に達した。ワルくて強くてカッコいい、新しいヒール像を蝶野は確立した。その人気は、三銃士の中でいつしか突出したものとなっていた。 

 絶妙にキャラクターが異なる3人は、新日本のリングでそれぞれの位置を確立していた。が、蝶野がひときわ存在感を増してしばらくすると、彼らは道を分かちはじめることになった——。

 猪木を信奉してやまなかった橋本が、2001年に独立して「ZEROーONE」を旗揚げした。それは、小川直也との引退をかけた試合などの経緯を考えると、蝶野もやむを得ないと感じる。しかし、武藤の場合は意味合いが違っていた。

天山から蝶野に入った1本の電話の内容

 2002年1月のある日、蝶野に1本の電話が入った。普段は電話など滅多にかけてこない天山広吉の名前が表示されていた。

 天山は、武藤が新日本を辞めて全日本に行くこと、それに自分も誘われていることを、蝶野に相談しようと電話をかけてきたのだ。深刻な口調だった。

 噂は蝶野も耳にはしていたが、信用していなかった。だが武藤の退団が近いこと、そして武藤に追随する動きが拡大していることをここで実感した。

 天山は、あくまでも自分にまつわる事柄に限定して話そうとした。そうしようと思う気持ちは蝶野もうなずけた。なので、どのレスラーを引き抜く動きがあるのかなども聞かず、天山を引き留めようともしなかった。

「条件がいいところで働くのがプロだと俺は思っている。天山が自分で判断して決めればいいよ。だけど、お前のことを本当に欲しいのか確かめるためにも、契約金を要求したほうがいい。それが誠意というものだから」

 その時、蝶野は天山にそう言った。天山は、その言葉を「蝶野さんらしかった」と振り返る。

【次ページ】 武藤が退団ーー新日本を揺るがすクーデター

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