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蝶野正洋が語ったバラバラの”闘魂三銃士”「まだ俺が武藤選手を許せない気持ちが…」「橋本真也が見たいんだ。三銃士で集まろう」
posted2023/03/06 17:01
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph by
AFLO
その経歴を描いた「[ナンバーノンフィクション]蝶野正洋の距離ーー闘魂三銃士の25年」(初出:Number1037号/2009年9月17日発売)を3回シリーズで特別に無料公開します。<全3回の2回目/#1、#3へ>
◆◆◆
会社の内部に入った蝶野には激務が待ち受けていた。現場責任者という立場だけでなく、対戦カードを決めるマッチメーカーとして交渉にも携わっていくことになった。
武藤退団の余波がまだおさまらないなかで、新日本設立30周年記念興行となる5・2東京ドーム大会が迫っていた。しかし残り3カ月を切っているのに、準備がほとんど進んでいなかった。
蝶野はまず、自ら経営する会社のノウハウを取り入れて『ドーム大会実行委員会』と名付けたプロジェクトチームづくりに着手した。営業部、興行部など各部署からやる気のある社員を選抜することで、仕事の効率を上げることにした。蝶野個人の大きな仕事としてはマッチメークもある。これによってチケットが売れるかどうか、大会の浮沈がかかってくる。
ファンを納得させるカードを提供しなければならない。新日本と絶縁状態だった橋本真也を呼ぶだけではインパクトに欠ける。誰もがアッと驚くような選手を……。
そう思うと、ノアを率いる三沢光晴しか浮かんでこなかった。新日本とノアとの交流はゼロではなかったものの、トップの三沢がオファーを受けてくれるとは思えなかった。団体間の交流戦となれば、下の選手から試合を組み、盛り上がったところでトップ同士の対戦に発展させていくのが業界の常識だ。
蝶野から三沢への直電…その返答は?
本の対談などで、1つ年上の三沢とは不思議なほど気が合っていた。プロレスをプロ野球やJリーグぐらいまでの価値に高めたいという考えも共通していた。大会まであと1カ月に迫ろうとする時期、その共感に蝶野は賭けるしかなかったのだ。
蝶野は直接交渉するしないと心を決め、三沢の携帯電話に連絡を入れた。少し驚いた様子の三沢に、「俺とシングルでやってもらえませんか」と率直に言った。
一旦、保留した三沢から、すぐに返答が返ってきた。