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「殺されても行く」アントニオ猪木と北朝鮮を訪問、家族は「遺言書を書いて」…猪木に魅せられたパティシエの夢物語と“傑作チーズケーキ”

posted2023/02/20 11:02

 
「殺されても行く」アントニオ猪木と北朝鮮を訪問、家族は「遺言書を書いて」…猪木に魅せられたパティシエの夢物語と“傑作チーズケーキ”<Number Web> photograph by Essei Hara

アントニオ猪木が愛した『デリチュース』のチーズケーキ。その断面図は美しく、口にすると思わず顔がほころぶ逸品だ

text by

原悦生

原悦生Essei Hara

PROFILE

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Essei Hara

2023年2月20日に生誕80周年を迎えた故・アントニオ猪木さん。昨年10月1日に79歳でこの世を去った燃える闘魂は、世界中の“うまいもの”を味わい尽くした美食家でもあった。50年間にわたって猪木さんを撮り続けたカメラマン・原悦生氏が、「アントニオ猪木が愛した味」をNumberWebで紹介する。(全5回の4回目/#1#2#3#5へ)

◆◆◆

 大阪の箕面市に本店がある『デリチュース』の創業者でパティシエ(現在は相談役)の長岡末治さんは、アントニオ猪木の大ファンだった。

 長岡さんは1955年に徳島県の剣山麓に生まれた。

「田舎ではテレビはプロレスしか映りませんでしたから」

 長岡さんの少年時代、当地のテレビはNHKと日本テレビの系列の四国放送の2局しか映らなかった。小学生の頃から、モノクロのブラウン管に映し出された力道山を見てきた。

「猪木さんが外国に行って、帰ってくるところから人間ドラマを見せてもらった。ただ、強いだけじゃない。子供心に『凄い人だなぁ』と思いました」

「オーラと怖さ」を感じた若き猪木とのニアミス

 長岡さんは猪木の魅力にとりつかれていった。高校の入試は受けて合格したが、進学せずに腹巻きなどを作っていた繊維会社に就職した。15歳で社会人になった。働きながら通信教育で高等課程を学んだ。22歳の時、薬品会社に移ったが、わずか3カ月でやめた。ゴマすりのような営業が、自分には合わなかったという。

 長岡さんには「菓子職人になりたい」という思いがあった。

 1978年、長岡さんは23歳で『千里阪急ホテル』に入り、パティシエとしての修業が始まった。

 ここで猪木とニアミス的な遭遇をする。ホテルで宴会があり、猪木がゲストとしてやってきた。長岡さんはコック服を着て、宴会場の後ろで猪木を見ていたが、とても近づく勇気はなかった。12歳違いだから、猪木が30代半ばの頃だ。長岡さんは猪木に、オーラと同時に怖さを感じたという。

 金曜日のプロレス中継はVHSのビデオテープに録画して何度も見た。試合の翌日には、駅に大阪スポーツを買いに行った。

「引っ越しを4、5回したときに、ビデオはなくなってしまいました。どうやら、嫁さんに捨てられちゃったようです。それで何回も喧嘩しました(笑)」

 宝物は消えてしまったが、パートナーとの出会いはかけがいのないものだった。

 千里阪急ホテルの時、後に妻になる径子さんがアルバイトに来ていた。当時18歳で、長岡さんとは8歳違い。「かわいいなぁ」と思って見ていたという。やがて交際に発展し、径子さんが短大を終えるのを待って、結婚した。

【次ページ】 クリスマスイブに電話で突然「元気ですか!」

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