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アントニオ猪木が最後に食べた料理は「オークラのヴィシソワーズ」だった…盟友が明かす“猪木の愛した逸品”「オニオンリング、できる?」
posted2023/02/20 11:03
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
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都内有数のラグジュアリーホテルであるオークラ東京(The Okura Tokyo)。かつてアントニオ猪木は前身のホテルオークラ東京の別館(現在は営業終了)を定宿とし、10年ほど住んでいた。アメリカと日本を往復しながら、1年の約3分の1はオークラに泊まっていたので、「住んでいた」という表現が適切だろう。
猪木は当時、かなり長い時間をホテル内の『バー ハイランダー』で過ごしていた。「猪木に会いたければ、ハイランダーに行けばいい」と言ってもいいくらいだった。
距離を縮めた猪木のジョーク「次は300万だから」
萩俊一さんは1987年、18歳でオークラに就職し、22歳までハイランダーで働いた。一度は同店を離れたが、25歳の時にまたハイランダーに戻った。
「ハイランダーに入ってしばらくして、猪木会長が佐山聡さんと来店されるようになりました。最初は『いらっしゃいませ』としか言えませんでした。あくまでもひとりの従業員と、ひとりのお客様という関係です」
その頃、後に猪木の自宅にまで呼ばれて、毎週のようにランチのお供をするような関係になるとは思ってもみなかった。
2000年の大晦日、猪木は21世紀を迎えるにあたり大阪ドームで開催された『INOKI BOM-BA-YE(猪木祭)』でカウントダウンをやった。
翌年、猪木はそのカウントダウンをオークラのハイランダーのお客さんとともに行い、新年を祝った。それが毎年の恒例行事のようになった。猪木は新年のメッセージを色紙に書いた。
「次もよろしくお願いします」と萩さんが言うと、猪木は「次は300万円だから」と即座に返した。
「そんな金額、とても払えませんよ」
萩さんは驚いたが、もちろん冗談だった。猪木は笑った。それをきっかけに、ふたりの距離はぐっと縮まった。それから約20年、萩さんは猪木が新年に毎回書いてくれた色紙を大事に持っている。猪木は和紙にもメッセージを書いてくれた。萩さんは燃える闘魂から元気とパワーをもらっていた。
「新しい年 もっと大きく笑って行こうぜ」(2002年)
「時代に出会って 時代に恋して 時代を背負って歩こうぜ」(2005年)
「混乱の時代 選択肢は二ツある 不安と恐怖の中で生きるか、それとも 何が起ころうとも 人生に挑戦し続けるか」(2009年)
「謝 何が起ころうとも 感謝 ありがとう」(2010年)