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マッカーサーと並んで新聞の一面に…ボストンマラソン優勝後に田中茂樹が味わった“苦しみ”「円谷幸吉の気持ちは痛いほど分かる…」 

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田中耕

田中耕Koh Tanaka

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photograph byKoh Tanaka

posted2023/01/03 06:05

マッカーサーと並んで新聞の一面に…ボストンマラソン優勝後に田中茂樹が味わった“苦しみ”「円谷幸吉の気持ちは痛いほど分かる…」<Number Web> photograph by Koh Tanaka

福岡市の平和台陸上競技場にある岡部平太の胸像前で写真に収まる生前の田中茂樹。恩師の教えを胸に、91年の生涯を閉じた

「円谷の気持ちは痛いほど分かる…」

 もし田中が時を巻き戻すことができるならば、この岡部の話を聞かせてやりたかった後輩がいる。1964年の東京五輪マラソン競技で3位に入った円谷幸吉。五輪の3年後に自殺した彼もまた祝賀会のオンパレードで、周囲からの重圧を受けて悩んでいたという。

「円谷の気持ちは痛いほど分かる。岡部さんが生きていて、自分と同じことを円谷に話していたらきっと、最悪の結末にはならなかった……」

 田中は引退後、百貨店などに勤務し、日本陸上競技連盟理事や全国マラソン連盟会長を歴任。マラソンの普及に尽力してきた。

 生前、田中はふと自分の人生を振り返る時があったという。自分にとって、マラソンとは何だったのか。スポーツとは何だったのか。その時はいつも、恩師のことを思い出す。

 岡部は太平洋戦争で、長男の平一を特攻隊で亡くしていた。平一と同じ年頃の田中に「養子にならないか」とポツリと漏らしたこともあるという。

「田中君、僕はね、息子にはどんな形であろうが生きて帰ってきてほしかった。生きてさえいれば、人は前に進めるんだから……」

 岡部は声を詰まらせた後、「これだけは覚えておいてほしい」と田中を諭すように言葉を続けたという。

「スポーツは戦争ではないし、命を懸けるなんて言語道断。争ってはいけない。スポーツとは競うものなんだよ。フェアプレーのもと、相手と競いながら勝利を目指して日々努力する。それこそがスポーツの美徳なんだ」

 筆者が田中と最後に話したのは昨年4月のことだった。「お元気ですか?」と問いかけると、「足腰が痛い。体調がよくないんだ」と応じた後、「これだけは後世に伝えて、人生のゴールテープを切りたいと思っている」と言って力を込めた。

「スポーツとは、争うのではなく競うのだ」

 最期を覚悟していたのだろうか――。半年後、恩師から引き継いだ言葉を遺して、スポーツ黎明期を支えた韋駄天は、天へと駆け抜けていった。

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70年前、箱根駅伝5区を「日本人初のボストン優勝ランナー」が走っていた…伝説の韋駄天・田中茂樹が生前に語った箱根路の記憶と母の教え

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