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マッカーサーと並んで新聞の一面に…ボストンマラソン優勝後に田中茂樹が味わった“苦しみ”「円谷幸吉の気持ちは痛いほど分かる…」
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byKoh Tanaka
posted2023/01/03 06:05
福岡市の平和台陸上競技場にある岡部平太の胸像前で写真に収まる生前の田中茂樹。恩師の教えを胸に、91年の生涯を閉じた
田中の優勝を筆頭に、残る3人も9位以内に入る好成績を残した日本選手団は、祝いを兼ねて大会翌日からアメリカ各地を旅行した。
ニューヨークでは大リーグのヤンキースタジアムを訪問した。選手一人ひとりが場内アナウンスで紹介され、スーパースターのジョー・ディマジオが田中ら選手と握手を交わした。カリフォルニアでは、1924年のパリ五輪の競泳自由形で3つの金メダルに輝き、その後、俳優に転身して映画『類猿人ターザン』の主役を演じたジョニー・ワイズミュラーからハリウッドを案内された。
「ボストンは私の人生の中で素晴らしい思い出になっている。それもこれも、岡部さんがいてくれたおかげです」
帰国後の苦悩「毎日が地獄だった」
しかし、それからの田中の人生は一気に暗転する。帰国後、広島駅にいるところを周囲にいた人に気づかれると、無理やり木炭トラックに乗せられ故郷の敷信村まで凱旋パレードとなった。沿道は小旗を振る人たちであふれ、パレードは3時間にも及んだ。その後も連日、祝賀会が催され「毎日が地獄だった。気を失ったこともあるし、どうしていいのかわからなかった」という。日本大学に進学してからも怪我や不調に苦しみ、箱根駅伝での区間1位は2年時の5区のみ。卒業後は現役を引退した。
そんな時だった。岡部から手紙が届いた。封を開けてみると、こうつづられていた。
「旅費は払うから、私の家に来なさい」
福岡市の岡部宅を訪れた田中は、精神的に追い込まれている自分の気持ちを素直に話した。すると岡部は優しく語りかけてきた。
「そうか、つらかっただろう……。でも君はボストンで勝つために、全力を尽くして練習をしたじゃないか。その結果が優勝だったんだ。勝とうが負けようが、結果に至るまでの過程で何をしたかが一番大切なんだ。全力を尽くした君は立派だ。周囲がなんと言おうが俺がついている」
岡部が語るひと言ひと言が胸に突き刺さり、今までの悩みが吹き飛んだ。