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箱根駅伝、前代未聞の“替え玉事件”とは?「誰も知らない日大ランナーが3区でごぼう抜き…」
posted2021/01/01 11:04
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph by
Getty Images
1925(大正14)年1月6日、6回目となる箱根駅伝の往路で、ある事件が起きた。
このとき、日本大学の第2区の走者だった前田喜太平は、区間賞の快走で、日大を8位から6位に引き上げて戸塚の中継所に飛び込んだ。しかしそこで待っていた3区の走者は、予定された吉田正雄ではなかった。前田は狐につままれたような気持ちを抱きながらも、とにかくその走者に襷を渡す。
この走者が予想外の活躍を見せる。先を走っていた明治大学、慶應義塾大学、日本歯科医専、東京高等師範学校をごぼう抜きし、日大は一気に6位から2位へとのし上がった。戸塚では先頭の中央大学に7分半近く差があったのが、平塚の中継所で4区の走者・会川源三に襷を渡すまでに2分ほどに縮めていた。しかし、会川は、「選手が来たぞ! 日大だ」と観衆が叫ぶのを聞いても信じなかったという。その上、走って来たのは顔も見たこともない男だった。会川は驚きながらも、仕方がないので襷を受け取って走り出す。
「アラヨッ」なぜ替え玉がバレたか
結局、日大は4区で3位、5区で5位にまで落ち、翌日の復路では9区まで5位をキープしながら、最後の10区を7位でゴールして大会を終えた。優勝は明大であった。
あとで3区で抜かれた学校が調査したところ、日大の走者が替え玉であったことが判明する。その正体は、大山という人力車夫であった。同区間で日大に抜かれた他校の選手やサイドカーの関係者は、その走者が追い抜くときに「アラヨッ」と気合を入れる声を聞いていた。これは、このころ東京市内を走っていた人力車夫の習慣だった。
替え玉、しかも学籍のない者が走ったとなれば大問題である。それにもかかわらず、公式記録では3区の走者は吉田のままになっており、結果もちゃんと残っているので、日大はどうやら失格にならなかったらしい。ただし、『箱根駅伝70年史』には《日大は責任を感じてか、翌大正15年の第7回大会は出場をとりやめた》とある。
人力車夫は「アマチュアではない」問題
箱根駅伝が始まったのは1920(大正9)年2月。ちょうどこれと前後して、オリンピックではアマチュア問題が持ち上がり、日本でもその規定をめぐり議論となっていた。
日本がオリンピックに初参加した1912(明治45)年のストックホルム大会では、五種競技と十種競技で優勝した米国のジム・ソープが帰国後、学生時代に野球のアルバイトで金銭を受け取っていたと報じられ、メダル没収の事態に発展する。