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マッカーサーと並んで新聞の一面に…ボストンマラソン優勝後に田中茂樹が味わった“苦しみ”「円谷幸吉の気持ちは痛いほど分かる…」

posted2023/01/03 06:05

 
マッカーサーと並んで新聞の一面に…ボストンマラソン優勝後に田中茂樹が味わった“苦しみ”「円谷幸吉の気持ちは痛いほど分かる…」<Number Web> photograph by Koh Tanaka

福岡市の平和台陸上競技場にある岡部平太の胸像前で写真に収まる生前の田中茂樹。恩師の教えを胸に、91年の生涯を閉じた

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田中耕

田中耕Koh Tanaka

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Koh Tanaka

近代コーチの祖・岡部平太が導入した科学的トレーニングで力を付けた田中茂樹は、ボストンマラソン本番を万全の状態で迎えた。岡部のアドバイスを思い浮かべながら、ひたむきに走りゴールに飛び込む。その後、想像もしなかった喜びと苦境を味わうことになった田中が、後世に残したかったメッセージとは――。昨年10月4日に91歳でこの世を去った韋駄天の、“天国からの遺言”を紐解いていく。(全3回の3回目/#1#2へ)※文中敬称略

 1951年4月19日正午。第55回ボストンマラソンに出場した153人の選手は、一斉にスタートを切った。田中をはじめ日本の選手たちは、岡部からレースの戦い方を口酸っぱく叩き込まれていた。

「いいか。外国人選手は前半に飛ばしてくる。しかし、それにあおられるな。これまでの練習通りに自分たちのペースを守れば、外国人選手が飛ばしても離されることはないし、後半には絶対に抜き返せる」

 岡部の予想通り、日本選手のレース運びは順調だった。小柳舜治が快調な走りで、折り返し地点をトップで通過した。3番手を走る田中も、これまでにない体の軽さを感じていた。

「全然きつくなかった。もっと飛ばしたかったけれど、岡部さんの指示が頭に残っていて、自分のペースで走ることに徹しました」

「えっ、優勝?」無我夢中で自分の順位に気づかず

 すると、30キロ付近。ボストン特有の“心臓破りの丘”に入った時だった。沿道から日本語の声援が聞こえてきた。ボストンで暮らす日系人たちの中には、戦時中に強制収容された者も多かった。日本選手の応援に力が入らないはずはない。 

「田中、頑張れ!」 

「小柳のペースが落ちたぞ! 急げ!」

 この声援で、田中の脳裏に岡部の言葉が浮かんできた。 

「いいか、勝負を仕掛けるのは一度きりだ。相手の蹴り足を見ろ。蹴り足が弱まっている時は疲れている証拠だ」

 前を走る選手の足に目をやると、靴底が見えなくなっている。ここから先は得意な坂が続く。仕掛けるなら今しかない。

【次ページ】 マッカーサーと並んで一面に「アトムボーイ」

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