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70年前、箱根駅伝5区を「日本人初のボストン優勝ランナー」が走っていた…伝説の韋駄天・田中茂樹が生前に語った箱根路の記憶と母の教え
posted2023/01/03 06:03
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph by
Shigeki Tanaka
生前、歴史に名を刻んだ偉大なランナーは、出身地の広島を離れて栃木県宇都宮市に住んでいた。筆者が最初に取材したのは、2017年6月。待ち合わせ場所のJR宇都宮駅改札口の正面に、グレーのシャツに黒の短パン姿の田中が立っていた。「ご自宅で話をさせてもらえませんか」と頼むと、田中は朗らかな笑みを浮かべながら「いやいや、積もる話もある。一杯やりながら話そう」と、駅から徒歩10分ほどのところにある居酒屋へと誘った。
「金栗足袋」の時代の箱根駅伝
この時、田中は86歳。頭髪は薄く、目じりのシワも深く、どこにでもいる高齢の男性に見えた。しかし、居酒屋に向かう後ろ姿を見ると、背筋は伸び、短パンから見えるふくらはぎは膨れ上がり張りがある。歩くスピードも速い。頑強な足腰は健在で、世界と勝負した体力と胆力は衰えていなかった。
暖簾をくぐると、カウンター6席とテーブル2卓しかないこぢんまりした店内には、まだ午後2時過ぎとあって客は誰もいなかった。テーブル席に座り、田中はカバンの中からアルバムを取り出した。自身の若かりし日の写真を見せながら、記憶をたどり始めたのだ。
当時の箱根駅伝の出場選手が履いていたのは、ランニングシューズではなかった。日本人初の五輪マラソン選手で、大河ドラマの題材にもなった金栗四三(1891~1983年)が愛用していた「金栗足袋」を履いてレースに臨んでいた。舗装されていない道は凸凹が激しかったため、足袋が破れて裸足で走り出す選手もいた。田中も左右の足袋が破れてしまったことがあったが、沿道からの応援を力に変えて走り抜いたという。