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「あなたは本当にヒロシマから?」原爆投下の6年後、“アメリカ”を知った田中茂樹のボストンマラソン前夜「こんな国の人に勝てるわけが…」
posted2023/01/03 06:04
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph by
Shigeki Tanaka
戦後間もない1951年にボストンマラソンを制し、昨年10月4日に91歳で亡くなった伝説のランナー・田中茂樹。生前の取材中、田中はカバンの中から1枚の写真を取り出した。そこに写っている男性こそが自分の才能を見出し、開花させてくれた指導者だという。その人物の名は、福岡県糸島市出身の岡部平太(1891~1966年)。米国でスポーツ科学を習得し、日本における近代スポーツの礎を築いた人物である。「岡部さんがいなかったら、私はいない」。精神論が主流の時代の中、科学的なトレーニングで世界と渡り合える力を付けていった“師弟の物語”とは。(全3回の2回目/#1、#3へ)※文中敬称略
田中と岡部の出会いは、1950年2月、佐賀市で開催された20キロロードレースがきっかけだった。田中は高校の部で優勝し、そのレースを見た岡部は、戦後スポーツ界で日本人が世界で勝てるのはマラソンだと直感する。その考えを、旧知の間柄で「日本マラソンの父」と称される金栗四三に提案。「オリンピックマラソンに優勝する会」を創設した。
田中はその最初のメンバーだった。物資不足の時代に、米と毛布をリュックに詰め、福岡市の百道海岸近くにあった宿舎で合宿に参加した。第1回の練習会場は大濠公園と岡部が創設した平和台陸上競技場。田中は当時をしみじみと振り返る。
「岡部さんには、”不思議な練習”ばかりやらされた。400メートルや1500メートルを何分で走ってこいとか。それに集団で走らされたかと思うと、一番後ろの選手に『集団を追い抜いて先頭を走れ』とかいう指示が出た。起伏のあるコースも走らされた」
この練習方法は、当時の日本では浸透していなかったインターバル走とクロスカントリー走だった。
岡部平太が授けた「科学的トレーニング」とは
岡部は1891年、糸島半島の芥屋村で生まれた。幼い頃からスポーツ万能で、講道館柔道の創設者、嘉納治五郎に師事して上京。東京高等師範学校(現筑波大)を経て、米国で科学トレーニング理論を習得した。陸上競技、サッカー、野球、競泳、テニスなどを貪欲に学び、その時に知ったインターバル走やクロスカントリー走を取り入れたのである。