アスリート万事塞翁が馬BACK NUMBER
マッカーサーと並んで新聞の一面に…ボストンマラソン優勝後に田中茂樹が味わった“苦しみ”「円谷幸吉の気持ちは痛いほど分かる…」
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byKoh Tanaka
posted2023/01/03 06:05
福岡市の平和台陸上競技場にある岡部平太の胸像前で写真に収まる生前の田中茂樹。恩師の教えを胸に、91年の生涯を閉じた
田中は一気にスパートをかけた。インターバル走とクロスカントリー走の成果もあり、起伏の激しいコースで彼に太刀打ちできる者はいなかった。
無我夢中で4カ所の上り坂を駆け上がり、1人抜き、2人抜き、そして最後の下り坂を懸命に走り、ゴールに飛び込んだ。両手を広げて待ち構えていた岡部が、田中を抱き締めて大声で泣いている。
しかし、田中は岡部がなぜ泣いているのかわからなかった。会場に響き渡る歓声に包まれて控室に戻ると、誰かから「勝ったぞ!」と言われたがピンとこない。すると、岡部から「電話だ」と言って受話器を渡された。出ると、電話口の向こうから興奮した声が聞こえる。
「田中さん、優勝おめでとうございます。今の気持ちを聞かせてください」
岡部の地元、福岡の西日本新聞社からかかってきた国際電話だった。
「えっ、優勝? 私がですか?」
この時、田中は初めて自分が優勝したことを知った。2位に3分30秒もの大差をつけていたが、ゴールにはテープがなく、1位になったのがわからなかったのである。
表彰式でボストン市長から月桂冠を頭に載せられ、金メダルを受け取ると、外国人選手たちが駆け寄ってきた。何かと思うと、シューズを脱げと催促された。
「おお、ちゃんと指が5本あるじゃないか。人間で良かった」
外国人選手たちがジョークを交えて一斉に笑いだした。田中が履いていたのは、ランニングシューズではなく、金栗四三が初出場した1912年のストックホルム五輪から愛用してきた「金栗足袋」だった。マラソン用に改造を重ねて40年近くの月日が過ぎてようやく、田中はこの足袋で日本人として初めて世界のトップに立ったのである。
マッカーサーと並んで一面に「アトムボーイ」
田中の快挙は敗戦で打ちひしがれた日本国民に勇気と希望を与えたばかりか、世界中にニュースとして打電された。
アメリカの新聞は、広島から来た20歳の青年を「アトムボーイ(原爆少年)」と一面で称えた。田中が記事を眺めていると、同じ一面のトップには連合国最高司令官、ダグラス・マッカーサーの退任を伝える記事が掲載されていた。日本に進駐した権力者の「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という演説と並んだ「JAPAN」勝利の文字。万感の思いを募らせた田中は「どうだ、みたか!」と思わず叫んでいた。