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サッカー日本代表PRESSBACK NUMBER
ドーハは「悲劇の地」ではなく…実はゲンのいい場所? 川島永嗣が語る日本サッカーとの深イイ関係〈李忠成の伝説ボレーも〉
posted2022/12/14 11:01
text by
浅田真樹Masaki Asada
photograph by
Kiichi Matsumoto/JMPA
1993年10月28日、日本がつかみかけていたワールドカップ初出場の権利は、ロスタイムの失点でその手からスルリとこぼれ落ちた。
ドーハの悲劇――。
それが日本サッカー史において、とてつもなく重大な出来事だったことは間違いない。これをきっかけに、日本は本気で世界を目指すようになったと言ってもいいだろう。
日本の出場が7回目となった今回のワールドカップは、日本サッカー因縁の地、ドーハを首都に持つカタールが開催国だったことでも注目された。
しかも、日本人にとって「悲劇」の地だったドーハは、ドイツ、スペインを立て続けに下したことで、「奇跡」の地へと評価が一変。日本代表を率いる森保一監督が、29年前の悲劇を知る“ドーハ戦士”だったことも後押しとなり、「ドーハの奇跡」へと至るストーリーは一層強調された感がある。
素晴らしい思い出のあるスタジアムなので
しかし、悲劇的結末以来の29年間を振り返ると、実のところ、ドーハと日本サッカーとのつながりは深く、そればかりか、決してゲンの悪い場所ではなかったことも見えてくる。つまり、今回のワールドカップで突如、黒から白へと塗り替わったわけではないということだ。
「日本サッカーにとって(ドーハの悲劇という)大きな出来事があった場所ではありますけど、僕にとっては正直、アジアユースもあったし、アジアカップもあったし、特にこのスタジアム(ハリファ国際スタジアム)は素晴らしい思い出のあるスタジアムなので、逆にいい思い出しかないですけどね」
そう語るのは、日本代表GKの川島永嗣である。
川島が言うアジアユースとは、2002年のアジアユース選手権(現U-19アジアカップ)、同じくアジアカップとは、2011年のアジアカップのこと。どちらもドーハ、あるいはその周辺を含むエリアで開かれた大会で、日本は前者で準優勝し、翌年に開催されるワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)への出場権を獲得。後者では優勝を果たし、通算4度目となるアジアチャンピオンの座に就いている。
いずれの大会も、日本の正GKを務めていたのが川島だった。
李忠成の“あのボレー”と“三笘の1ミリ”が生まれた
ちなみに、川島が出場した2003年ワールドユース選手権はお隣のUAEで開かれたのだが、今回のワールドカップ直前にカナダと親善試合を行ったアルマクトゥームスタジアムは、「ワールドユースで試合をしたスタジアムだった」と川島は語る。