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「甲子園でエース、猛勉強で東大合格」のスゴい人生…どんな勉強法だった? 100年間で24人だけの“天才”が明かす「センター数学はまさかの17点」 

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沼澤典史

沼澤典史Norifumi Numazawa

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photograph byJIJI PRESS

posted2022/11/19 11:01

「甲子園でエース、猛勉強で東大合格」のスゴい人生…どんな勉強法だった? 100年間で24人だけの“天才”が明かす「センター数学はまさかの17点」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

2002年のセンバツ甲子園で登板する松江北高の楠井一騰。こののち東大合格を果たすが、どんな勉強法だったのだろうか?

「周りからも絶対受からないと言われていましたし、自分でも焦りがありました。現役時は、全然合格点に足りませんでしたね。東大はA判定からE判定で不合格判定が出るのですが、結果はD判定とかなり下の方でした。松江北には浪人生向けの学科である補習科があり、そこで浪人生活を始めました。将来はプロ野球選手の代理人になりたいと漠然と考えていて、そのためには弁護士資格が必要。なので、主に法学部へ進む東大文科Ⅰ類を目指していたのですが、当時の補習科の先生によると、『忙しい順に、“文Ⅰ、文Ⅲ、ネコ、文Ⅱ”と言われるほどだから、野球を目一杯やるなら文Ⅱだ』と言われ、文Ⅱを目指すことにしたんです」

「ネコ文Ⅱ」の状況は昨今では様変わりしているようだが、当時の楠井は将来の夢よりも野球を目一杯できる環境を優先したのだ。そこからは文字通り朝から晩まで勉強漬けで、2度目の受験に挑む。

 一浪を経て臨んだ受験でも、得意だった数学の問題を1問も完答できず、楠井は二浪目を覚悟したというが、結果的に20点ほど最低点を上回り合格。親子の十数年来の念願がついに叶った瞬間だった。そして楠井は当時(2004年)としては21年ぶりの甲子園経験者として東大野球部の門を叩いたのだ。

「テストは学年320人中300位だった」

 翻って、21世紀枠でセンバツ大会に出場した東大野球部OBの中村信博(高松・2012年卒)。中学までは常に勉強はトップだった中村は、県下ナンバーワン進学校へ入学する。しかし、「甲子園のためなら死んでもいい」とまで思っていた中村は、真面目に授業の予習復習をしていた楠井とは異なり、早々に勉強から脱落していく。

「高校では落ちこぼれです。授業後、20時で全体練習が終わると、そこから2時間ほど居残り練習が続きます。帰ったら22時を過ぎていますし、翌日も6時半から朝練なので、僕は勉強時間が取れませんでした。そもそも、僕は甲子園が高校生活で一番の目標だったので、大学進学のことはあまり考えていませんでした。当然、授業もついていけなくなり、2年生になる頃には授業の内容がさっぱりわからない状態に。3年時のテストの成績は学年320人中300位くらいになっていました」

 朝練でバッティング練習やアメリカンノックをこなせば、疲れと眠気で授業どころではなかったという。もはや、授業は部活の合間の休憩時間だ。それだけ、野球に振り切った生活をしていた中村だったが、ついぞレギュラー獲得は果たせなかった。

「僕のポジションはキャッチャーでしたが、小学生のときに肩を壊して以来、二塁までいい送球ができずにいました。ただ、ワンバウンドを取ったり、ボールを止めるのはうまかったので、守備固めとして試合終盤に出場する機会が多かったです。あとはずっとブルペンでピッチャーのボールを受けることが僕の役割でしたね」

【次ページ】 「甲子園の黒土を踏んだときは、涙が出ました」

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