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大谷翔平「日本ハムにお世話になります」までの舞台裏…“可能性ゼロ”から交渉を続けた元GMが10年越しに明かす「とてつもなく長い45日間」
posted2022/11/19 17:00
text by
佐藤春佳Haruka Sato
photograph by
KYODO
「この間、大谷のお父さんにメールを打ったんですよ。“日本ハムで5年、アメリカで5年。早いもんですね”ってね。あれから10年ですか。本当に頑張りましたね。もちろん、まだまだ途中ですけれどね……」
優しい表情で山田氏は語りだした。
10年前の10月26日。ドラフト会議翌日に訪れた花巻東高校での指名挨拶は、わずか18分で終わった。大渕隆スカウトディレクターとともに、佐々木洋監督のもとを訪れ、強行指名の経緯を説明。同じ敷地内のグラウンドでランニングをしていた大谷とは、一目会うことも叶わなかった。
「姿さえ見られなかったですね。指名されたことは光栄だけれど、アメリカに行きます、と。会う気持ちにならない、ということでした。もちろん、初めからそれくらいは覚悟して行ったので気にはならなかったんです。ただ、周りから色々な話を聞くうちに、これは難しいな、と。想像していた以上に、本人の気持ちは頑なだと感じたのを覚えています」
指名を強行する以上、“勝算”が全くなかったわけではない。本人のメジャーへの憧れを理解したうえで、実際に高校時代の大谷は国際試合での渡米経験がなかったことなどから、決意が覆る可能性は僅かにあると信じていた。何よりその傑出した才能を高く評価し、だからこそ日本で何年かプレーしてしっかりと基礎を作ってほしいとの願いがそこにはあった。
「ほとんどイチかバチか。とにかく行こう、と。球団もフロントやスカウトの判断を信じて、思い切ってやってください、と背中を押してくれたのがありがたかったです」
18歳の夢を踏みにじるのか--。世間からは大きな批判の声もあった。それでも迷いはなかった。
「第一巡選択希望選手 北海道日本ハム 大谷翔平」
ここから始まった、粘り強い交渉の日々。何度も行き来した東京から花巻まで往復6時間超の時間は、山田氏にとって長く、重いものだった。