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「甲子園でエース、猛勉強で東大合格」のスゴい人生…どんな勉強法だった? 100年間で24人だけの“天才”が明かす「センター数学はまさかの17点」
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph byJIJI PRESS
posted2022/11/19 11:01
2002年のセンバツ甲子園で登板する松江北高の楠井一騰。こののち東大合格を果たすが、どんな勉強法だったのだろうか?
「甲子園の黒土を踏んだときは、涙が出ました」
中村が2年秋のときに、チームは県大会で準優勝し、翌年春のセンバツ大会に21世紀枠で選出される。中村は背番号14をつけ、控えキャッチャーとしてベンチ入りした。「仲間に連れていってもらった」と中村は言うが、それでも死に物狂いで目指していた甲子園のグラウンドだ。足を踏み入れたときの感動はひとしおだったという。
「一番感動したのは開会式ですね。ライトスタンド脇から入場するんですが、グラウンドまでの通路がものすごく薄暗いんです。そこを通り抜けて外野に出ると、急にパッと明るくなる。青空と芝生が目に入って、四方八方から観客の歓声が聞こえ、その中を行進するんです。内野に入り、甲子園の黒土を踏んだときは、涙が出ましたね。大会旗掲揚の際には大会歌の『今ありて』が流れますが、この曲はモチベーションを高めるために何百回と聴いた歌でした。なので、感極まってボロボロ泣いてしまった。隣にいた強豪校の選手たちには『こいつなんで泣いてんの』と不審がられましたが、それくらい感動しました」
しかし、中村が甲子園のグラウンドでプレーしたのは試合前のシートノックだけ。出場機会はないままチームは宇部商業に2対6で敗れた。
「前評判では大差をつけられるんじゃないかと言われていましたが、みんながいい戦いをしてくれたと思います。もちろん負けや試合に出られなかった悔しさもあり、また夏に向けて練習しました。ただ、夏は強豪の丸亀城西に初戦で当たってしまい、僕らの夏は1回戦で終わったんです」
「父が肺癌で余命半年と言われました」
甲子園に懸けていた中村にとって、早すぎる夏の終わりだった。最後の夏に甲子園出場を果たせなかった中村の胸には、当然燃え尽きない思いがくすぶる。そこで初めて、大学野球を目指すことを決意した。
「甲子園という、ものすごいスタジアムで、ものすごい雰囲気を経験したので、大学では甲子園を超えるものじゃないと満足できないと思いました。そうなると神宮球場、つまり六大学野球しかない。ただ、早稲田や慶應などの私立は、僕の実力では入部すらさせてもらえないと思ったので、選択肢は東大しかありませんでした。それまで、一度も東大に行こうと考えたこともなく、初めて東大野球部を意識しました」
さらに、東大を目指したのは親孝行の意味も大きかった。