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「あれだけ怪物ぞろいの1つ下の世代が…」大阪桐蔭“元4番”山本ダンテ武蔵があえてプロに進まなかった理由「覚悟がようやく生まれた」
posted2022/10/27 17:01
text by
栗田シメイShimei Kurita
photograph by
KYODO
大阪桐蔭“最弱世代の4番”――。関西社会人野球の名門、パナソニックで白球を追う山本ダンテ武蔵(22歳)の野球人生は、時にそんな名称でくくられることがある。
1つ下の後輩たちは、のちに春夏連覇を達成する根尾昂(中日)や藤原恭大(ロッテ)らを擁する最強世代だった。だからこそ、そのコントラストは際立ったのかもしれない。
そんな中で、主将の福井章吾(慶應大→トヨタ)や徳山壮磨(早稲田大→DeNA)らと共に、ムードメーカーとしてチームの中心となったのがダンテだった。2017年センバツでは4番を務めて優勝に貢献。3年夏は3回戦で仙台育英に9回逆転サヨナラ負けを喫したが、大阪桐蔭の主軸という重責を背負った。
國學院大学を卒業後、プロ野球ではなく社会人野球を選択したダンテのキャリアを振り返ると、大阪桐蔭だからこそ養えた野球観が感じ取れる。
アメリカ人の父、日本人の母のもと広島県・江田島市で生まれ育ったダンテは、兄の影響で小学校低学年の頃にはじめてバットを握った。広島瀬戸内リトルシニアに進むと、持ち前の身体能力の高さを活かしてその名は県下に知れ渡る。打席に立つと柵越えを連発し、走れば誰よりも速くベースを駆けた。
進学時には全国の高校から多くのオファーが届いたが、ダンテの選択はいたってシンプルだった。
「監督に『話が来ている所で一番強い高校に行きます』とだけ伝えました。それが大阪桐蔭だった。だから、どんな高校から、どれだけの数のお話があったかは知らないんです」
「純粋な日本人だったら、注目してもらえたかな」
今でこそハーフの高校球児はずいぶん増えたが、ダンテの時代は違った。
小学生時代には褐色の肌を揶揄われたことがある。試合で整列する際に、周囲の視線が気になることもあった。ダンテは年齢を重ねた今だからこそ、当時の経験をこう振り返る。
「あの頃はそういう人間たちをプレーで黙らせてやる、と反骨心で野球をやっていました。でも、もし自分が純粋な日本人なら、ここまで注目してもらえたかな、とも思うんです。身体的な強さや能力もそう。野球選手って、やっぱり目立ってナンボ。『ルーツや見られ方も含めて自分なんだ』と割り切って考えられるようになってからは、自然と前向きなスタンスになってきました」
大阪桐蔭のチーム内では、ハーフとして特別視されることもほとんどなかった。厳密にいうなら、そんな“雑音”を気にする余裕もなかった、という表現が正しいのかもしれない。