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関根潤三が「“大洋の遠藤”でいいんじゃないか」遠藤一彦が大洋ホエールズとともに引退を決めたワケ「ひとつの絵になるかと納得できた」
text by
石塚隆Takashi Ishizuka
photograph bySPORTS NIPPON
posted2022/10/07 06:21
1992年10月7日、「ホエールズ」が消滅する日に引退し、胴上げされる遠藤一彦。その決断の決め手となったのは関根潤三元監督だった
二人であと何年やれるかと考えたりもしたよ
「年齢的にも俺が先に戦力外通告されるならわかるけど、順番が違うだろう。遠藤は本当にいいライバルだったし、あいつがいるから俺もやらなきゃいけないって気持ちで長年がんばることができた。ピッチングを見るかぎり、遠藤はまだいけると思ったし、二人であと何年やれるかと考えたりもしたよ。けど、遠藤は引退を決めた。残る人間が去る人間に何て言葉をかけていいのかわからないし、とにかく最終戦は愛着のあるホエールズという名が消えるよりも、遠藤がいなくなってしまうことが寂しくって仕方がなかったよ……」
ホエールズ最後の日、齊藤はベンチに入っていたが、試合前、遠藤に声をかけることはできなかった。去っていく盟友の背中を黙って見守るしかできなかった。
遠藤は大歓声の中、2イニングを投げ切った。1回はランナー一、二塁の場面で大学の後輩の原辰徳をフォークで中飛に切って取ると、2回は岡崎郁、村田真一から連続三振を奪っている。引退試合ゆえ巨人の選手に遠慮はあっただろうが、遠藤の球威は十分であり、フォークもよく落ちた。
「まだやれるんだぞってところを見せたかった。まあ、最後のバカ力が出たよね」
遠藤は懐かしそうに微笑んだ。
選手たちは“ベイスターズ”を楽しみにしていた
一方、スタメンで出場していたセカンドの高木豊は、ホエールズ終焉に対し、あまり悲壮感をもっていなかった。
1980年のドラフトで3位入団し、2年目からレギュラーに定着した高木は、'80年代半ばにホエールズの看板となった“スーパーカートリオ”の一人として人気を博した選手である。高木は12年間、ホエールズのユニホームに袖を通してきた。
「ホエールズが“横浜ベイスターズ”に変わると正式に発表されたのは最終戦の後(11月11日)なんですけど、じつは前からロゴとかは出来ていて、選手たちは楽しみにしていたんですよ。今でこそ横浜大洋時代のユニホームはスタイリッシュだと高評価だけど、10年以上デザインの変わっていないユニホームだったので、やはり飽きがきていた。球団名も横浜の洗練された街のイメージに近づくみたいで、寂しさよりも新しさのほうが強かったよね。例えば親会社が変わるのであれば話は別だけど、そうではなかったから」
<後編へ続く>
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